2017年3月28日

 福島第一原発事故の被害を特徴づける言葉の1つは「分断」である。同じ事故の被害に遭いながら、住んでいる地域によって避難するかどうかが分断され、賠償額も分断された。福島にとどまった人、県外に避難した人、区域外(自主)避難の人の間でも分断が生まれた。

 悪いのは国と東電なのだから、被害者がお互いを批判することは止めようよと言われる。しかし、そういう高みに立つ言葉も、多くは、特定の立場に立ったものであり(私も同じだ)、別の立場を公然と批判することがなくても、異なる立場の人の共感を得るのは簡単ではない。

 しかし、生業訴訟は、この分断を超えて原告が組織されている。前回書いた通りだ。沖縄への自主避難者もいる。ずっととどまっている人もいる。避難したが戻った人もいる。

 どんな立場の方であれ、それぞれの方のお話を伺っていると、大変重たい。誤解を怖れずに言うと、自分の立場を主張することは、他の立場の方との差異を明らかにすることでもあるから、他の立場の人には「批判されている」と受けとめられるかもしれない。

 しかし、生業訴訟は、同じ目的をもった訴訟である。原発事故前の福島に戻せということ、それまでの間、被害者には共通して精神的苦痛への賠償として月5万円支払えというものだ。どの被害者に対しても同じ額を支払えということは、「自分のほうが苦痛が大きい」という考えがあっては成り立たない。

 実際、原発事故が与えた衝撃は、被害者に共通のものだろう。そして現在、福島に住んでいれば以前より多い線量のなかで日常生活のいろいろな苦労があるし、遠く離れて暮らしていればそれも別の苦労がある。

 その精神的苦痛がなくなるのは、福島の線量が元に戻る時だというのは、まっとうな考え方だと思う。そして、その共通の目的があるから、被害者が団結し合えるのだと思う。被害者が団結する思想を持ち、それを実践しているところが、生業訴訟の他にない特徴であって、私が関わり続ける理由でもある。

 もし月5万円が満額認められると、3800人の原告だから、1億9千万円。年にすると22億8千万円。福島が元に戻るまで続けるとなると、それなりの額になる。しかも、この裁判は、他の裁判と違って、繰り返すが被害者全体の救済が目的なのである。裁判の結果を受けて、新しく原告になる人があれば、その人にも救済の手は及ぶ。福島県民の一割(20万人)とでも原告になれば、それが与える影響は計り知れない。

 もちろん、裁判の結果は予断を許さない。被害者を区別してくる可能性は高い。しかし、それでも、福島が元に戻るまで国と東電の責任は続くのだということは、はっきりさせるものであってほしい。

 結審前の前夜集会で、弁護団の南雲幹事長は、結審しても闘いは道半ば、判決(10月10日)までの闘いが重要だとおっしゃった。その通りだ。いま「公正な判決を求める署名」運動が展開されているので、是非、協力をお願いします。(了)