2015年8月9日

 昨日、原水爆禁止世界大会の議事が早めに終わったので、原爆資料館に行った。ここの展示は充実しているので、長崎に来たときはできるだけ行くようにしているが、それでも4年ぶりかな。ファットマンの色とか、展示替えがあったと報道されていたので、今年は必ずと思っていた。

 ゲバラが広島に来て原爆投下の惨状を知り、「なぜアメリカに謝罪を求めないのか」と発言した話は有名である。ゲバラに限らず、事実を知れば、多くの人はそう感じるだろう。先日出演したゴー宣道場でも、小林よしのりさんが、原爆投下をアメリカに謝罪させることを強調していて、私も「賛成!」と合いの手を入れた。

 ところが、そう考えている人は、あまり多くないように思える。そこには、いろんな理由があるのだろう。

 原水爆禁止運動は、もともと反米的な性格が強いのに、アメリカに謝罪を求めることは、ほとんど問題になっていない。おそらく、反米とか反ソでは運動の団結を維持することはできなくて、どこの国であれすべての国の核廃絶を目標にすることになったことと関係があるかもしれない。その目標が崇高なため、多くの被爆者は、そこに使命感を感じるようになった。

 それなら、右翼的な運動がアメリカに謝罪を求めるかというと、そんなこともない。日本の右翼というのは、日本の主権を侵害しているアメリカにものをいえないという、特殊な性格をもっていることに起因しているのだろう。

 左翼にせよ右翼にせよ、アメリカの原爆投下を真剣に謝罪させることは、もっと真剣に考えなければならない問題だ。原爆を投下して、あれだけの人を殺しておいて、ナチスのユダヤ人虐殺に匹敵する行為なのに、謝罪せずに済ませるというならば、ふたたび同じことが起きる思うのが、普通の感覚だろう。

 だけど、昨日、原爆資料館を見学しながら、これがアメリカに謝罪させる最短の道なのかなと思った。謝罪せよと求めなくても、被ばくの実相をこうやって見せ続けることが、いちばん大事なのではないかと。

 これだけの惨状を見せられて、それでも「戦争を終わらせるには必要なことだった」と言える人は、そうはいないはずだ。浦上天主堂が破壊された姿を見て、マリア像が悲しげな目で訴える様を見て、アメリカ人でさえ、そういえる人は多くはないだろう。

 少し前になるけれど、NPT会議で各国の指導者に広島・長崎を訪問することを求める決議に、中国が反対したことが報道された。加害国なのに被害国であるかのように装う口実とされるというのが、中国の反対理由だったように記憶する。

 そうなのだ。被ばくの実相を見せるということは、あの中国がそう恐れるだけのインパクトをもつわけだ。もちろん、加害国であることを忘れてはいけない。しかし、だ。

 加害国であることの自覚のない現在の政府のもとでも、被ばくの実相というのは、核保有国を恐れさせる。それが、加害国であることの自覚を強め、そういう自覚を持っていることを世界に理解してもらうことの上に、被ばくの実相を広げるということになれば、この分野では、アメリカが加害国で、日本が被害国であったという認識を、世界で共通のものにすることができるかもしれない。

 それがアメリカの謝罪につながって、核兵器は使ってはならない、廃絶すべきだという合意をつくることにもつながるのではないか。そんな気がした一日だった。