2015年8月15日

 終戦七〇周年を目前にした二〇一五年八月一四日、安倍晋三首相は、いわゆる「戦後七〇年談話」(資料○○○㌻)を発表しました。戦後五〇年に際して出された村山富市内閣総理大臣談話(資料○○○㌻)と同様、閣議決定を経て出されたもので、同じ主題をあつかっていることから、両者はよく比較して論じられます。

 村山談話は、日本の朝鮮半島支配から一九四五年の敗戦に至る経過について、「植民地支配と侵略」だと言い切り、「痛切な反省」と「お詫び」を表明したものでした。これに対して、日本との戦争を戦ったアメリカ、イギリス、中国、支配された韓国、さらに日本の侵略の過去を批判してきた日本国民からは、好意的な評価が寄せられました。一方の安倍氏は、首相になる以前(二〇〇九年)、村山談話について「あまりに一面的」「村山さんの個人的な歴史観に、日本がいつまでも縛られることはない」と断じていました(『正論』)。首相になってからも、「安倍内閣として、村山談話をそのまま継承しているわけではない」として(二〇一三年四月二二日)、村山談話への敵意を隠さないできました。日本国民のなかには、日本の戦争は自衛のためのやむを得ない戦いであったし、アジア解放の戦いだったと考える人々がおり、安倍内閣はそういう世論に支えられて誕生したものです。

 他方、日本が植民地支配と侵略をおこなったことは、ほぼ常識として定着しています。それを否定するとなると、日本の国家としての立ち位置が、世界中から疑惑の目で見られます。侵略を認めない首相が進める新安保法制への批判もさらに高まります。個人としての信念を貫くのか、日本国家の代表者としての立場に配慮するのか、談話をめぐって安倍首相にはそのことが問われました。信念を本音(裏)、国家の立場を建前(表)とすると、裏と表をどう位置づけるのかが、安倍談話の最大の焦点だったということです。

 実際の談話をどう評価すべきか。これは簡単ではありません。「侵略」「植民地支配」「反省」「お詫び」というキーワードを盛り込んだことで、村山談話を受け継ぐという最低限度の水準はクリアーしたという見方があります。私も、その点は大事なことだと考えますし、新安保法制に危惧を感じている世論が安倍首相にそういう選択をさせたという面があることは、運動の成果として誇れることだとも思います。また、侵略も植民地支配も認めない右翼的な世論が跋扈しているなかで、安倍首相さえここまでは認めたということをテコにして、侵略と植民地支配への責任という面である程度の世論の一致ができることを期待します。

 しかし、この談話が、本当にそういう責任を認めたものなのかという点で、重大な疑問が残ることも事実です。よく指摘されているように、侵略や植民地支配への責任をとる主語を明確にして語っていないということではありません。侵略したという国家としての建前(表)は表現するけれども、それを個人の本音(裏)を侵害しない範囲におさめるため、一般的な言い方にとどめるということも、選択肢としてはあり得ると思うからです。村山談話の水準には達しないけれども、もしそこで国民多数の合意が得られるなら、それはそれで意味のあることだといえます。

 私が疑問を感じたのは、談話発表直後の記者会見におけるやりとりのときでした。安倍首相は、記者の質問に答えて、以下のように述べたのです。

 「先の大戦における日本の行いが「侵略」ということばの定義に当てはめればダメだが、当てはまらなければ許されるというものではありません」

 これは、一見すると、どういう見方があっても日本の行為は許されないものだったのだ、といったものだと捉えられないこともありません。しかし、うがった見方をすれば、日本が許されない行為をしたことは否定しないが、それは必ずしも侵略の定義に当てはまるものではないのだと、開き直ったもののように思えます。この言葉につづいて、安倍首相は、「具体的にどのような行為が「侵略」に当たるか否かについては、歴史家の議論に委ねるべきである」としているので、いっそうそういう感想がふくらんできます。

 そのことを考えると、談話において「侵略」という用語を使っていても、その定義は決まっていないのだから実際には侵略とはいえないというのが、談話の立場だということになります。ということになると、談話は建前(表)の枠内にあるのではなく、安倍首相の本音(裏)と一体のものであると捉えることも可能です。とはいえ、これは記者会見のやりとりであって、閣議決定された談話それ自体ではないので、評価は簡単ではありません。

 そもそも、日本の近現代史をどう評価するかということが、なかなか難しい問題なのです。そこには、植民地支配と侵略という負の側面もあれば、欧米の圧迫から独立を守り抜いたという正の側面もあります。政治の世界では、そのどちらかだけを強調する歴史観に出会うことが少なくありませんが、実際に歴史は、そのふたつの側面が分かちがたく結びついています。その複雑さが、安倍談話をめぐる議論に投影しているわけです。

 本書は、安倍談話を材料にしつつ、そういう日本の近現代史をどう評価するかについて、いろいろな角度から論じたものです。読者がこの問題を考える糧として少しでも本書が役立てば、八月一五日をはさんだ暑い時期を執筆に費やした筆者としては、苦労が報われる気がします。