2018年1月27日

 昨日、また記事を書かなかったので、本日は土曜日だけど埋め合わせ。というか、書くべきこともあるし。

 本日のお昼、京都駅で斎藤紀医師にお会いする。広島でお仕事し、東京経由で福島に戻られる途中だ。お忙しいのに申し訳ありません。

 7年目の3.11に間に合わせようと必死でつくっている『広島の被爆と福島の被曝』。サブタイトルは「両者は本質的に同じものか似て非なるものか」だ。書店向けチラシでは、こんな紹介文にした。

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 「著者は広島で30年被爆者のこころとからだを診つつ被爆者が希望をもって生きられるよう励ましてきた。同時に原爆訴訟の先頭にも立ち、高線量被ばくを原爆症認定のしきい値とする政府のやり方と闘い続けている。被爆者の苦悩は、家族を失った苦しみや闘病の苦しみも含め、全人格的なものであって被ばく線量だけでは推しはかれないからだ。10年前に転居した福島で3.11に遭遇。広島とは被災のなかみが大きく異なるとはいえ、再び被ばく線量による切り捨てに直面する。被災者は被災の苦しみがあるというだけで救済されるべきではないのか。同時に希望をもって暮らすには、被災者を線量の呪縛から解き放つべきではないのか。原爆から原発へ、放射線被ばくと向き合う問題作。」

 最後にある「線量の呪縛から解き放つ」というところが、この本の眼目かな。これだけでは伝わらないというか、そのために本を読んでほしいと思うけど。

 著者は、まさに線量の呪縛のなかで葛藤してきたんだよね。広島で被爆者の原爆症認定を獲得しようとしても、爆心地から何キロかだと、「それでは線量が低くて認定されないんだ」みたいに、線量が低いことを残念がるみたいな倒錯が生まれる。

 福島でも、「低いから大丈夫」として、高線量と低線量で地域と人が分断されていく。広島の場合とは、その線量の大小は決定的に違うわけだが、それでも線量で分断されるのは同じ構図なのである。

 そこをずっと悩み、この7年間、福島の人びとのなかで語ってきた著者の叫びのような(淡々とした語りだけど)ものが、この本から伝わってきます。「被災者は被災の苦しみがあるというだけで救済されるべきではないのか」という見地ですね。乞うご期待です。