2018年2月28日

 本日は朝からずっと外に出てきました。もうすぐ東京事務所まで戻ります。記事を書く余裕がないので、本日のメルマガに書いた内容をアップします(以下)

 もうすぐ7年目の3.11がめぐってきます。みなさんはその日、どう過ごされる予定でしょうか?

 私はこれまでと同様、その日は南相馬市にいて、午後2時46分、市役所の追悼式でお祈りを捧げてから、あわてて東京経由で京都まで戻ってきます。9日から福島に入り、私が関わっている生業訴訟の第二次提訴行動に参加し、原告団長と「あまちゃん」の音楽で有名な大友良英さんの対談を聞き、翌日は弊社の福島本にも関係するイベントをやった上で、飯舘村を経由して浜通りに入って、いろんな場所を見てきます。全国からのツアー客といっしょにです。

 3.11が起きた2011年、当然、他の出版社も同じですが、福島関連の本をたくさん出しました。しかし、それでは飽き足らない気持ちになり、秋頃になって、「自分は1年目の3.11をどう過ごしているのだろう?」と考えるようになりました。その時、3.11はどうしても福島で、福島の人と一緒に過ごすんだという気持ちになったのです。

 そこで、浜通りで講演と音楽のイベントをする計画を立てました。そのため、弊社の著者でもあるお二人に声をかけたのです。

 一人は蓮池透さん。福島第一原発の三号機、四号機の保守管理もされたことがあって、弊社から『私が愛した東京電力』という本も出されており、福島の人びとを前に謝罪の心を伝えたいということでした。

 もう一人は伊勢崎賢治さん。世界の紛争現場で活躍する方で、3.11の直後に原発から数キロの場所に一人で入り込んで調査し、危険だからとして誰も支援に行かない福島に国際紛争に関わるNGOを派遣していました。プロのジャズトランペッターでもあるので、浜通りの人びとに音楽の癒やしをと考えたのです。

 出版につながらない企画なので、会社に負担をかけるわけにはいきません。そこで旅行社と相談して全国からツアーを組織し、自前でやることにしました。

 それからずっと、3.11は同じように過ごしてきました。時として本になる企画も伴うようになったので、最近は、私の旅行費用は会社持ちになっています(ありがたい)。

 もう7年目なんですね。3年目頃までは、3.11の前になると、いろんな出版社が関連本を山のように出していました。書店も独自のコーナーをつくりました。でも3年目頃からは、書店のコーナーは西日本ではなくなり、次第に東日本でもなくなりました。いまでは福島だけでしょう。それにつれて、出版社も関連本を出さなくなりました。当然でしょうね。もうからないわけですから。

 そのなかで、弊社だけは、ずっと福島の本を出し続けています。10日の福島市で開催するイベントで並べる新刊本は二つです。

 一つは、『しあわせになるための「福島差別」論』。著者が14人もいるので紹介できませんが、当日は、そのなかから清水修二さん(元福島大学副学長)と池田香代子さん(ドイツ文学翻訳家)が参加します。そういえば池田さんは、このツアーに2年目からずっと参加しています。

 この本の特徴はどこにあるのか。それは、福島から避難している子どもたちが「放射能がうつる」などといじめられていることに象徴されるように、7年経ってもなお存在する福島に対する差別と分断は、いったいどうしたら乗り越えられるのかという問題意識で編まれたことです。

 そのために本書は、第一に「それぞれの判断と選択をお互いに尊重する」こと、第二に「科学的な議論の土俵を共有する」ことを提唱しています。そして、何よりも福島の人びとがしあわせになることを基準にして、どうすればいいのかを考えようと主張しています。

 これは言葉にするのは容易いことですが、実際にはそう簡単ではありません。私も毎年の福島ツアーのなかで、福島にとどまっている人たちと、福島から避難している人たちとを、どうやって同じ場についてもらい、議論してわかり合えるかという企画を模索してきましたが、これまで一度も実現しませんでした。

 しかし、京都で開かれたこの本の出版記念講演会(主催は市民社会フォーラム)には、弊社から『母子避難』という本を出してくださっている森松明希子さん(郡山から大阪に避難)が参加し、いっしょに議論をすることができました。もちろん、お互いが理解し合ったということではありませんが、貴重な一歩になったとは思います。

 もう一冊は、まだ書店に並んでいませんが、『広島の被爆と福島の被曝──両者は本質的に同じものか似て非なるものか』です。著者は斎藤紀さん(医師)。10日のイベントにも参加されます。

 齋藤さんには、1年目のツアーを実施する準備で秋に福島に行った時、偶然知り合いました。それから6年余、ずっと本を書いていただきたいと懇願してきましたが、ようやく現実のものとなりました。

 齋藤さんは医師になってすぐ広島に行き、被爆者の研究と治療に携わってきました。被爆者を原爆症に認定させるための各種の原爆訴訟でも中心をにない、40年間の人生をそれに捧げてきたわけです。10年前、余生を過ごすために福島に来て、7年前、3.11に遭遇することになります。それ以降はずっと、原爆集団訴訟に関わりながら、福島の被災に向き合ってきました。

 そうなんです。広島の被爆と福島の被曝をもっとも深く知っているのが齋藤さんなんです。深く知っているだけに、問題が単純ではないことも経験で知っているわけです。たとえば、どちらにも共通するのが、線量で被害者を分断する思想。広島で被爆者に向き合っていると、ついつい「もう少し線量が高ければ原爆症に認定されたのに」と思ってしまう心の倒錯。だから、必要なことだと自覚しつつも、これまで筆がとれなかったわけです。

 そんな理不尽さと闘い抜いてきた著者でしか書けない本です。帯に「生涯をかけて被ばく問題に挑んできた著者だからこそ論じられる両者の関連と区別」とあります。是非、ご一読を。

 ということで、長くなりました。弊社は引き続き、福島問題と深く関わっていきます。『福島が日本を超える日』というのは、生業訴訟のなかで誕生した2年前の本のタイトルですが、苦しみのなかで成長する福島の人びとこそが、日本を変えていける力を蓄えているというのが私の実感です。是非、その道のりを読者のみなさんとともに歩んでいきたいと思います。

2018年2月27日

 以前、こういう企画をするんだと宣言しましたよね。山尾志桜里VS伊藤真VS伊勢崎賢治VS松竹伸幸の対決企画です。そして、主催者を募りました。その結果、毎日新聞社のメディアカフェが主催してくれることになりました。そのサイトにある告知文を紹介します。定員200名がもう半分ほど埋まっていますので、参加ご希望の方は早めに以下のサイトで申し込んでくださいね。

http://mainichimediacafe.jp/eventcal/?p=4016

 自民党は3月25日に党大会を開き、憲法改正に向けた党としての案を決めようとしています。その一つが、安倍晋三首相が昨年打ち出した、九条の1項も2項もそのままにして、そのあとに自衛隊の存在を明記しようという案です。加憲案とも呼ばれます。

 これに対して、伝統的な護憲派からはもちろん、さまざまな立場から対抗軸が打ち出されています。このシンポジウムでは、立場の異なる4人の方々が、公開討論をします。護憲団体・九条の会の世話人で、一貫して「九条を守る」立場の弁護士・伊藤真さん、「立憲的改憲」を主張する衆議院議員の山尾志桜里さん、紛争現場を熟知し「護憲的改憲」を唱える東京外国語大学教授の伊勢崎賢治さん、最近、『改憲的護憲論』を著した編集者・ジャーナリストの松竹伸幸さんです。安倍加憲論へのバラエティー豊かな対抗軸が議論されるでしょう。

 事前に質問を受け付けます。質問対象者を明記して、200字以内で、下記にメールで送って下さい。
info@mainichimediacafe.jp
 このシンポジウムはかもがわ出版、市民社会フォーラムが企画しました。

 今回のイベントは、「出張メディアカフェ」で、通常とは開催場所が異なり、千代田区立日比谷図書文化館大ホール(東京都千代田区日比谷公園1−4)で開かれます。

 入場には資料代1,000円が必要です。当日、受付でお支払いください。(領収書対応可)
■開催概要
開場 13:30 開演 14:00
終演 16:40 定員:200名

登壇者

伊藤真(いとう・まこと)
伊藤塾(法律資格の受験指導校塾長、弁護士、法学館法律事務所所長、法学館憲法研究所所長、日弁連憲法問題対策本部副本部長。
2009年7月、「一人一票実現国民会議」の発起人となる。14年、憲法解釈の変更による集団的自衛権の行使容認に反対する「国民安保法制懇」、15年、「安保法制違憲訴訟の会」に参加。16年9月、「九条の会・世話人」に就任。
一貫して憲法九条を守る立場を堅持してきた。

伊勢崎賢治(いせざき・けんじ)
東京外国語大学総合国際学研究院(国際社会部門・国際研究系)教授。
2000年から国連東チモール暫定行政機構で上級民政官としてコバリマ県で知事、01年から国連シエラレオネ派遣団で武装解除部長、03年からはアフガニスタンで日本政府を代表して軍閥の武装解除を指揮した。これらの経験をふまえ、世界各地の紛争問題で発言し、行動している。「自衛隊を活かす会」の呼びかけ人。
憲法九条問題では「護憲的改憲」を主張。

山尾志桜里(やまお・しおり)
衆議院議員(立憲民主党)。
憲法改正原案及び日本国憲法にかかわる改正の発議または国民投票に関する法律案を提出する権限を有する衆議院憲法審査会において委員を務める。立憲民主党憲法調査会では役員。自身は国家権力を統制する立場から自衛権の統制・憲法裁判所の創設などを柱とする「立憲的改憲」を主張する。
初代「アニー」。東大法学部卒、検察官を経て、09年の衆議院選挙で初当選(現在3期目。愛知7区選出)。

松竹伸幸(まつたけ・のぶゆき)
編集者・ジャーナリスト、日本平和学会会員(専門は外交、安全保障)。
2014年、現行憲法下での防衛政策のあり方を提言するために結成された「自衛隊を活かす会」(代表・柳澤協二、正式名称は「自衛隊を活かす:21世紀の憲法と防衛を考える会」)で事務局長を務める。
自身も、『憲法九条の軍事戦略』『対米従属の謎』(以上、平凡社新書)、『改憲的護憲論』(集英社新書)などで憲法と防衛政策について発言してきた。

申込は以下です。

http://mainichimediacafe.jp/eventcal/?p=4016

宣伝用のポスターです。

20180331_安倍加憲論への対抗軸

2018年2月26日

 今週は木曜日まで東京出張で忙しいということもあり、いろいろとお知らせを掲載するだけかも。まずは「自衛隊を活かす会」関連。

 自衛隊を活かす会は今年、連続講座「抑止力はこれでいいのか」をスタートさせます。第1回目は、早稲田大学准教授の栗崎周平さんをお迎えし、「抑止力の理論と現実──ゲーム理論とデータ分析で読み解く」です。

20180306_抑止力はこれでいいのか①_抑止力の理論と現実_RGB

 「ゲーム理論」というと「遊びか?」と思われる頭の硬い方もいると思いますが、チラシにも書いているように、「複数のプレーヤーによる意思決定の相互依存関係を記述する」のがこの理論なんですね。抑止のように、当事者一国の意思だけでは成り立たない関係を探る上で、大変有力な考え方だと思います。

 「研究会」なので参加者限定。研究者、自衛官(現元)、政党・国会議員、メディアのみです。二回目も5月で決まっていますが、これは非公開。今後も公開、非公開の両方があります。

 これをくり返していって、年末から来年初頭にかけて、自衛隊を活かす会として抑止力への対案みたいなものが打ち出せればいいなと願っています。そう簡単ではないことは自覚していますけれどね。

 だって、抑止力批判はこれまでもいくらでも存在してきましたし、私だって『幻想の抑止力』なんて本を書いたこともあります。だけど、日本の抑止力依存はずっと変わってきませんでした。日本国民は抑止力が大事だという自民党政府を支持し続けてきました。というか、野党だって(共産党を除いて)、みんな抑止力を疑っていません。共産党はこれを疑っているわけですが、その共産党の安全保障政策は(そういうものがあるかどうか別にして)、国民から支持されていません。

 国民の多くは、抑止力神話にどっぷりつかっていて、それで満足しているわけです。有名な非核三原則(持たず、つくらず、持ち込ませず)はその象徴のようなものです。だって、非核政策というなら、一番大事なのは、「使わせず」であるべきでしょ。なのに、日本の領域に核兵器が持ち込まれることには敏感であっても、抑止力の中心である「使うぞ」ということは黙認しているわけですから。

 抑止力に替わるものを見つけださない限り、9条の国民投票にも負けると思います。アメリカの抑止力に依存するというのが、安倍さんの加憲案の神髄ですからね。だから、それまでに国民の多くが納得できるものができればと思うわけです。

 では、京都駅に向かいます。

2018年2月23日

三、外国との単純な比較はできない

 裁量労働制を推進する人たちは、欧米でもホワイトカラーは労働時間規制の範囲外にあるという。「この問題についても先進国の例をみると、アメリカのエグゼンプトとフランスの力ードルを挙げることができる」(保原・前掲論文)。

 まずこの点では、わが国においても、すでに管理監督者が労基法の時間規制の枠外おかれていることを、指摘しなければならない。この対象となる管理監督者は、労働省の通達によっても「経営者と一体的な立場にある者」とされ、本来きわめて限定された概念である。しかし実態をみれば、企業の課長クラスは、ほとんどが包含されている。

 労働省の「賃金構造基本統計調査」によれば、管理職等の従業員にしめる比重は、部・課長で8・5%である。また、労務行政研究所の調査(「時間外割増率と営業、役職者の時間外の取り扱い」『労政時報』3096号)によれば、係長であっても時間外手当が支給されていないものが12・7%もおり、これらの係長も通達の時間規制をされていないので、日本でも労働者の10%程度は、労基法の時間規制の枠外におかれていると推測されている。

<管理職の働き過ぎが問題になるアメリカ>

 アメリカのホワイトカラーについていえば、公正労働基準法によって二種類の適用除外者(エグゼンプト)があるが、日本と大きく異なるわけではない。適用除外の一つは「管理的、運営的もしくは専門的地位において使用される被用者」であり、もう一つは「外勤セールスマンとして使用される被用者」である。

 まず後者であるが、外勤セールスマンは、わが国においても、すでにのべた事業場外労働の「みなし時間制」の対象であり、それが適用されれば労基法の通常の労働時間規制をうけない。

 前者についてみても、管理的、運営的な被用者といえば、両国の法律上の概念の違いはあろうが、日本での管理監督者のことである。専門的な被用者にしても、これまで日本で裁量労働制の対象となってきた「研究開発の業務その他の業務」と大きく変わるわけではない。

 したがって、実際に労働時間規制の適用除外をうけているホワイトカラーの数にも、本質的な違いはない。中窪裕也氏が紹介するアメリカ労働省の統計によれば、1989年時点で、民間部門の労働者のうち、管理的、運営的、専門的な被用者のしめる割合は14・8%である(「アメリカの適用除外とカナダの二段階規制方式」『日本労働研究雑誌』399号所収)。日本では管理監督者が10%、アメリカの専門的被用者にあたる「研究開発の業務その他の業務」で働く労働者は、前出の5業種で約186万人、全就業人口の3%(90年国勢調査の推計値)で、実際はアメリカとほとんど変わらないといえる。

 しかもアメリカでは、年俸制で裁量的に働くホワイトカラーの働き過ぎが問題になってきている。『日経ビジネス』誌(92年11月16日号)で、米ハーバード大学のある助教授は、「平均的な米国のビシネスマンが午後5時に帰宅して庭の芝刈りをする光景は、過去のものとなった。今や午後7時過ぎに疲れきって帰宅し、持ち帰った書類の作成し、週末も出張でつぶしている」「現在のように年俸だけを規定する契約では労働時間が際限なく長くなる。政府の規制で年間労働時間を盛り込むべきだ」とのべている。

 こうしてアメリカでは裁量労働制につうじる年俸制が問題になリ、労働時間にたいする政府の規制が求められているときに、日本ではホワイトカラーへの裁量労働制をひろげ、時間規制からはずそうとしているのであり、逆行以外の何ものでもない。

<厳格な歯止めのあるフランスの事例>

 フランスでは、ホワイトカラーは事務員、テクニシアン(技術員)、職工長、力ードル(幹部職員)、エンジニアーに分けられるという。このうち力ードルが、裁量(請負)労働をおこない、時間外労働規制の枠外にある者として典型例といわれている。しかしカードルの割合は、88年の政府統計によっても、雇用労働者総数の11%であるとされ(「時間外労働の国際比較と日本のあり方」神代和欣『労働法学研究会報』1879号所収)、日本の管理監督者どほぼ同じ割合である。

 しかも、この力ードルも、上級の幹部職員と一般の幹部職員にわけられ、後者の場合は「賃金支払い明細書に包括的な賃金に対応する労働時間数が記載され」「この時間数を超過すると、超過勤務時聞の割増賃金支払いに関する諸規定が適用される」といわれている(「フランスの年単位変形労働時間制と幹部職員の労働時間管理」小宮文人『日本労働研究雑誌』399号所収)。わが国の裁量労働制のように無制限ではないのである。

 またフランスでは、この裁量労働制が他のホワイトカラーにひろがる傾向にあるともいわれている。しかしこの場合、条件はさらにきびしくなる。賃金が残業手当を含んだものと同等かそれ以上であり、本人の承諾を得るという「二つの条件をカバーすれぱ法的に認められている」(「フランスのホワイトカラーのキャリアーと労働時間」鈴木宏昌『季刊 労働法』165号所収)のである。

 さらに、判例上も、割増賃金を支払う義務のないのは力ードルだけであり、「請負労働の仕事の量が多すぎ、残業をせざるを得ないテクニシアンなどの場合、所定外労働を請求する可能性はある」(同前)のである。

 外国の例をもちだして裁量労働制をひろげようとするのは、かえって日本の裁量労働制の特異性をうきぼりにするだけである。裁量労働制の無制限な拡大を許さないために、今後ともたたかいをつよめていかなけれぱならない。(了)

2018年2月22日

二、ノルマ達成へ競争と分断を生む制度

 裁量労働制というと、労働時間にだけかかわる制度ととらえられがちだが、けっしてそうではない。裁量労働制の拡大を提案した労働基準法研究会の保原喜志夫氏も、「単なる時短の次元を超え、労働保護制度の根幹に触れる性質のもの」「広く仕事の仕方、企業運営の基本的な仕組みにさえ関わるもの」(「労働基準法改正の動向と論点」『労働法学研究会報』第1900号所収)とのべている。どの点が根幹にかかわるのであろうか。

<ノルマの達成を最大の基準とする制度へ>

 労務行政研究所は、2年まえに裁量労働制を導入した6つの企業の調査をおこない、その結果を公表した(『労政時報』第3037号)。それによると、各企業に共遁する裁量労働制導入の重要なねらいの一つが、「『仕事量(労働時間)=賃金』から『仕事の質(成果)=賃金』への意識改革を図る」ことであるとされている。

 つまり働いたのが何時間かでなく、ノルマにもとづき、どれだけの成果をあげたかを基準にして賃金を払う方向への転換として、位置づけているのである。裁量労働制のもとでは、労働者の実労働時問は意味を失うわけであるから、そういう側面がおのずからつよまるのは避けられない。裁量労働制と年俸制の導入がワンセットですすむ企業が多いのも、そのためである。

 このことは、いま日本のホワイトカラーにおそいかかっている大「合理化」攻撃と、不可分にむすびついている。日経連は、昨年5月に発表した「労働力・雇用問題研究プロジェクト最終報告」において、「ホワイトカラーの生産性向上は、今後いっそう、企業の重要なテーマとなってこよう」とのべていた。

 日経連常務理事の成瀬健生氏は、「会杜全体として業績を維持しながらホワイトカラーの人数を減らすことができれば、これは明らかにホワイトカラーの生産性向上と判断できる」として、「ホワイトカラーについては常に人員削減の努力をすべきだ」と主張している(「ホワイトカラーの生産性向上が鍵」『労働法学研究会報』第1900号所収)。

 裁量労働制は、こうしたホワイトカラーの「合理化」にとって、きわめて都合のよい制度である。なぜなら、ノルマの達成が賃金支払いの基準になれぱ、ノルマの達成できない労働者は、達成するまで何時間でも残業するか(これも生産性向上につながる)、能力のないものとして切り捨てられるかの選択を、迫られるからである。

 労使協定でみなされた時間内に仕事が終われる労働者にとっても、この制度は過酷な結果をもたらしかねない。労働時間について上司から直接の命令をうけない場合も、今月にあるノルマが達成できれば、来月はそれを超えるノルマが課されるからである。労働基準法研究会の渡辺章氏も、「成果目標にだけ課されて、尻を叩かれるようになると、際限のない労働になる。次期の成果は今期の成果にプラス・アルファされた目標になる。予想された成果を上げるために、日に夜を継いで達成に努める」(「40時間労働法制への検討課題」『ジュリスト』第1009号所収)ことになると認めている。

 こうして労働者は分断され、ノルマの達成をめざす競争が激化する。マルクスは、成果にもとづき支払われる出来高賃金について「一方では、労働者たちの個性、したがって自由感、自立性、および自制を発展させる傾向」があるとして、裁量性につながるような規定をおこないつつ、「他方では、彼ら相互の競争を発展させることになる」とのべたことがある(『資本論』第1巻九五〇頁・新日本新書版)。裁量労働制も、本質的には同様の問題をかかえるものである。

<実証されている長時間労働と過労死の強要>

 裁量労働制のこのような問題が、労働者に過労死をふくむ過酷な状態をもたらすことは、すでに実証されている。

 国立公衆衛生院の上畑鉄之丞氏は、過労死したもののうち労働や身体状況の完備している203人の調査をおこなった(『総合臨床』第40巻第6号)。このうちホワイトカラーは107人であるが、その内訳はきわめて衝撃的である。一番多いのは、事業場外の「みなし時間制」が適用され、ノルマの達成が基準となっている営業販売職(39人)であった。裁量労働の「みなし時間制」が適用される記者・編集者(15人)も多く、合計で5割をこえる。技術職(28人)のいくつかも、裁量労働制とかかわると推測される。

 このような結果が生まれるのは、「みなし時間制」では長時間労働が恒常化する傾向があるからである。営業職にかんする東京都立労働研究所の調査(『営業職の労働時間管理』)によると、通常の場合と同様に残業すれぱ残業手当が出る労働者の場合、月平均残業時問は33・5時間となっている。これにたいし「みなし時間制」をとっている場合、つまり残業時間におうじて手当を払うのでなく、残業時間の長短にかかわらず一律に「営業手当」などで処理する場合、月平均の残業時間は51・1時間から68・5時間の範囲となっている。上畑氏の先の調査によると、過労死したホワイトカラーの7割以上は、月50時間以上の残業をふくむ長時間労働を強いられており、「みなし時間制」をとる営業職の残業時間の数字と一致することは象徴的である。

 「みなし時間制」の場合に長時間労働が固定化するのは、すでにのべたように、ある月にノルマを達成すれぱ、その次はもっと大きなノルマが課され、そのことがくりかえされるからであると推測される。このノルマの増大は、いまの日本のホワイトカラーをとりまく重大問題の一つとなっている。都立労働研究所は80年代、技術革新のもとでの労働・職場の変化にかんして4つの調査をおこなったが、その分析を試みたある医学者は、「主としてオフィス労働者に関して得た結論」として、つぎのようにのべる(「職業性ストレスと『過労死』の社会学的パースペクティブ」山崎喜比古『社会学と医療』所収)。

 「最も広範にみられた第一の変化は、仕事量が増えた、あるいは人手不足傾向が強まった、仕事の範囲が広がった、責任が重くなったというものである」「変化の第二は、企画判断など頭を使う仕事や創意工夫の余地は拡大したというものである」「すなわち、仕事の自由裁量度は大きくなったかも知れないが、職務上の要請・圧力は少なくともそれ以上に強まった。つまり、職務上の要請・圧力は仕事の自由裁量度が大きくなったことのポジティプな影響を相殺して余りあるほどに強まった」

 こうして労働者に裁量性をあたえ「やりがい」を植えつけつつ、ノルマを増大させていったのが、80年代の企業のやり方であった。この論者は、分析の結論として、過労死をもたらす現在の労働者のストレスを、「ノルマストレス」と名づけている。

 裁量労働制は、このやり方を合法化するものであり、無制限に適用されるなら、ホワイトカラーをさらに過酷な状態に追い込むことになるであろう。

<労働基準法の適用除外となる危険はらむ>

 裁量労働制の重大な問題の一つとして、労働基準法の適用を除外する労働者の範囲をふやそうとする動きとのかかわりが指摘できる。

 5月10日、労働基準法研究会は、つぎの労基法改正にむけた報告を労働大臣に提出した。これはきわめて多面的な内容をふくむものだが、そのなかに「労働契約等法制の適用及び当事者」の項がある。ここでは、現行労基法のもとでの労働者慨念が、使用者の指揮監督下で労働するものと解釈されていることを紹介しつつ、「指揮命令や拘束性といった労働者であることを特徴づけるような要素の少ない者が増加している」「裁量労働により就労する場合には時聞的拘束度が小さい」とのべられている。

 つまり、裁量労働制の適用される労働者は、労基法による保護があたえられる労働者とは、完全には一致しないというのが、労働基準法研究会の考えなのである。

 この報告は、「労働者性の判断については、当面、昭和60年の労働基準法研究会報告『労働基準法の労働者の判断基準について』により運用することが適当」としている。ここでふれられている昭和60年(1985年)の報告では、つぎのようにのべられていた。

 「『労働者性』の有無は『使用される=指揮監督下の労働』という労務提供の形態……によって判断される」、「業務の内容及び遂行方法について『使用者』の具体的な指揮命令を受けていることは、指揮監督関係の基本的かつ重要な要素である」、「勤務場所及び勤務時間が指定され、管理されていることは、……指揮監督関係の基本的な要素である」

 これは、勤務時間が管理されていなければ、指揮監督関係の基本的な要素がなくなり、したがって労働者性の基本的要素もなくなるという論理である。裁量労働も、労基法で「当該業務の遂行の手段及ぴ時問配分の決定等に関し具体的な指示をすることが困難」とされているのであるから、裁量労働にたずさわる労働者には、労働者性の基本的要素が欠如している、したがって労働基準法の適用もできない、ということになりかねない。

 労働基準法研究会のメンバーが、すでにのべたように、裁量労働制を「労働保護法制の根幹に触れる性質のもの」と規定したのは、このような背景があるからである。(続)