2014年3月20日

 この間、こういう種類の本をつくってきた。『もしマルクスがドラッカーを読んだら、資本主義をどうマネジメントするだろう』とか、『右脳戦略論』とか。

 こういう方向を、もっと本格的に進めたい。いま、池井戸潤の『ルーズヴェルト・ゲーム』を読み終えて、ほんとにそう思う。

 これまで、ずいぶんと長い間、なんとなく企業というものを積極的に肯定しない世界に住んできた。株なんて、買ったこともなかったし。

 だけど、それでは通用しないとも感じてきた。株価が下がっているのを喜ぶ左翼をみると、国民感情からかけ離れているなとも思ってきた。

 それに、もともとマルクスは、株式会社というものを、社会主義に向かう要素と位置づけてきたわけだ。所有と経営が分離することを積極的に捉える立場である。

 そして、数年前、生まれて初めて、株式会社というものに入社した。いまでは、その代表取締役である(形だけだけど)。

 私が住んできたかつての世界からすると、株式会社というのは、利潤第一で、労働者とか消費者の利益を考えない組織である。しかし、実際に体験する企業経営というのは、そういうステレオタイプのものとは異なる。

 だって、代表委取締役として見る書類では、そもそも利潤なんてほとんどない。そして、もし利潤をあげられるなら、もちろん銀行からの借金も返したいけれど、社員の薄給をなんとかしたいと思う。

 池井戸の『空飛ぶタイヤ』とか『下町ロケット』などは、中小企業にもすばらしい面があることを、リアルに描いたものである。そして、『ルーズヴェルト・ゲーム』は、それを中堅企業にまで広げている。「大企業=悪」、「中小企業=善」というような単純な見方は、やはり通用しないわけである。

 もちろん、資本と労働者の利害というのは、対立するわけである。しかし同時に、労働者は、会社での仕事にやり甲斐を感じているはずでもある。仕事に意味があると感じるから、そこに働くわけだと思う。

 そういうものを、もっと肯定的に捉える立場でないと、労働者の共感を得ることも難しいのではないか。自分が搾取されていることへの怒りという問題と、しかしそれにもかかわらず自分の労働が社会を支えている誇りという問題を、統一的に捉える視点が必要だと感じる。

 さて、そんな本が、はたしてできるのか。悩まなければならない。