2016年5月30日

 まず、以下の文章を見てほしい。

「第17条
1 1951年6月19日にロンドンで署名された「軍隊の地位に関する北大西洋条約当事国間の協定」が合衆国について効力を生じたときは、合衆国は、直ちに、日本国の選択により、日本国との間に前記の協定の相当規定と同様の刑事裁判権に関する協定を締結するものとする。
2 1に掲げる北大西洋条約協定が合衆国について効力を生ずるまでの間、合衆国の軍事裁判所及び当局は、合衆国軍隊の構成員及び軍属並びにそれらの家族(日本の国籍のみを有するそれらの家族を除く。)が日本国内で犯すすべての罪について、専属的裁判権を日本国内で行使する権利を有する。この裁判権は、いつでも合衆国が放棄することができる。」

 これは、いわゆる日米行政協定のなかの一文である。現在、行政協定は地位協定と名前を変えているが、そのうち、いまでも問題となる裁判権に関するかつての規定である。アメリカの占領が終わり、日本が独立する際、旧日米安保条約とともに発効した(52年)。

 そう、まず、この後段の部分を見れば分かるように、独立したといっても、当初、日本はいっさいの裁判権を持たなかったのだ。現在は、公務中の犯罪はアメリカが、公務外の犯罪は日本が裁くことになっているが、出発点はそうではなかったのだ。

 これは独立国として異常なことだった。第二次大戦前の世界では、どこからか外国人がやってきて犯罪を犯した場合、その外国が裁判権を行使するなど、考えられないことだったのである。日本にとっても、幕末の不平等条約で領事裁判権を押しつけられ、その回復が独立をかけた闘いであったことは理解できるだろう。外国人を裁判できるのが独立国だった。

 軍隊の場合を見ると、平時に外国に駐留すること自体、かつてはあり得ないことだった。イギリス連邦諸国などで例外的に見られたが、そこで犯罪があった場合、やはり受け入れた国の裁判権に服するというのが基本的な考え方だったのである。戦時に同盟国に軍隊が駐留することはあったが、その場合は、まさに戦争を遂行している最中であり、勝利することが派遣国、受け入れ国の双方にとって必要なので、兵士の属する軍隊が行う軍法会議が裁くことになっていた。戦争中の特例という考え方だったのである。

 戦後の日本のように、独立した国が平時において外国軍隊の駐留を受け入れるのは、歴史上、初めてのできごとであった。だから、軍隊の裁判権をどうするのかというのは、まったく新しい考え方が必要とされていた。戦前のイギリス連邦諸国のように、すべて受け入れ国が裁くということだって、選択肢としてあったのだ。

 ところが日本は、はじめから、裁判権はアメリカにあるという考え方を受け入れた。出発点から独立を放棄したと言われても仕方のない措置であった。

 しかも、冒頭の引用の前段部分を見てほしい。これって、どういうことかというと、NATO諸国でも同様にアメリカ軍の裁判をどうするかが議論されていたのだが、その議論の結果が出れば、NATOと同じ裁判権方式にしますよということを意味していた。そして、NATOが、長期のはげしい議論の末、公務中はこうだ、公務外はこうだという仕分けをしたので、その方式が日本にも持ち込まれたというわけである。

 NATOができる前、欧州諸国だけでブリュッセル条約機構というのができていて、その条約では、裁判は受け入れ国がやるということになっていた。だから、欧州諸国は、その考え方をNATOの地位協定にも持ち込もうとした。米軍がやってきても、欧州諸国が裁くということだ。しかし、アメリカにとっては、欧州を守るためにやってくるのに、裁判権を放棄するなんてとんでもないということになる。そこで、長期のはげしい議論が闘わされ、妥協的な考え方になったということになる。

 その結論の評価は、ここでは措く。大事なのは、独立国なら、自分の権利を守るために必死に闘うということである。欧州諸国は米軍を受け入れるにあたっても、そういう立場でがんばった。

 しかし、日本政府は、自分ががんばることは最初からしなかった。欧州諸国とアメリカの協議を眺め、その結果をそのまま受け入れるということにしたのである。主権を守るために闘うという姿勢が、日本は原点から欠落していた。それをそのまま受け継いでいるのが、現在の地位協定をめぐる日本の姿勢である。だから、根底から変えなければならないのである。