2016年4月28日

 熊本地震を受けて、川内原発をどうするのかというのは、なかなか難しい問題である。先日の記事でも書いたように、地震は起きたけれども、それで川内原発が影響を受け、正常な運転ができない状態が生まれたというわけではない。けれども、地震国日本で、本当に原発に頼っていいのかという問題は、本格的に考えなければならない問題だ。

 産経新聞は、原発の停止を訴える立場の人びとを、強く批判している。たとえば、「「川内止めろ」反原発派の非常識 復旧作業妨げも」という記事もそうだった。

 この記事では、「原子力規制委員会が設定した川内原発の基準地震動(想定される最大の揺れ)は、揺れの勢いを示す加速度で620ガルだ」とし、川内原発はその揺れに耐えられるように設計されている上に、実際には「160ガルの揺れで自動停止するようになっている」ことを指摘する。今回、停止しなかったということは、そこまでも至っていないということである。「8・6ガルが最大」だったという。

 さらにこの記事では、「川内原発を停止した場合、九電は代替の火力発電所をフル稼働させなければならない」が、「余震が続く熊本や大分両県にも、大型の火力発電施設がある」とする。確かに、今回のような揺れが続いている状況で、火力発電所を動かすかどうかは微妙な判断になるだろう。記事が指摘するように、九電の経営への打撃や、電力の安定供給という問題も生じてくる。

 私は、現在の原子力規制委員会の基準が、それなりに厳しいものであることは理解できる。想定をかなり超えても大丈夫なように基準が作られているのだろうと思う。

 しかし、今回、少なくない人々が不安を感じている背景にあるのは、3.11以来の「想定外」という問題が頭をよぎるからではないのだろうか。「想定外」の津波によって3.11は引き起こされたわけだが、現在の原子力規制委員会の基準は、どんな「想定外」にも対応できるのか。

 実際、熊本で余震が続いていること自体、「想定外」のことだろう。気象庁が今後の見通しについて、「経験したことがないので分からない」という言葉を使って説明していたが、何が起こるか分からないのに「安全だ」ということにはならない。

 産経新聞だって、別の記事では、びっくりするようなことを書いている。「熊本地震 阿蘇山「破局噴火」はいつ起こるか?」という、神戸大学海洋底探査センター長の巽好幸氏の記事である。

 これによると、「9万年前の阿蘇山カルデラ噴火の場合は、なんと1千立方キロものマグマが一気に噴き出した」とする。そして、「現時点ではこのような巨大なマグマ溜まりが阿蘇山の下にあるのかどうかは分かっていない」が、警戒すべきだと述べているのである。

 巽氏によると、そのような巨大カルデラ噴火が起きた場合、「1億人以上の日常生活が奪われる」ような被害が生まれるという。原発はどうなるかは書かれていないが、そこまでの被害が生まれるマグマが噴出しているのに、原発だけ正常に動くことは、それこそ「想定外」だろう。それとも、それだけの被害があるのだから、原発が被害を起こしても、その一部に過ぎないということになるのだろうか。

2016年4月27日

 昨日は、福島まで行き、甲状腺被ばく問題でお医者さんにインタビュー。というか、インタビューは池田香代子さんにしてもらって、私はそのやりとりのそばにいた。

 40年間も被爆者医療に関わってきた臨床医の苦悩と前向きな姿勢が伝わってくるお話だった。それを十分に伝えられるものにできるかどうか、編集者としての力量が問われることになるだろう。

 この方とは、もう5年近く前に知り合った。その時の言葉でいまも覚えているのは、30年間の広島での仕事を終え、晩年を福島に移り住んで3.11に直面することになるわけだが、広島の被爆者から、「先生も私らの仲間になったね」と言われたということだった。

 その時の複雑な胸の内は察するに余りある。広島の被爆者が、自分が被爆したということを、被爆しなかった他の方々との区別において理解せざるをえないということ。同時に、広島の被爆は、福島とは比べものにならないほどのすさまじさであったことを理解してほしいこと。それにもかかわらず、先生は、3.11があったからではなく、被爆者をずっと仲間だと思っていたこと。その他その他。

 先生は、それらも含めた被爆者医療を通じて自分が到達したことを、絶対化と相対化という言葉で表現された。自分の味わったことの苦痛を絶対的な悪として表現しなければ、生活さえできなかった現実。しかし、そこを絶対化してしまえば、たとえば空襲の被害者との区別において自分を位置づけることになるので、心からの連帯はできなくなるのではということ。その意味で、自分を相対化する視点が必要なこと。

 あるいは、臨床医は、科学的事実をベースにしなければならないが、患者を救うにはそれでは足らないこと。被爆の影響の科学的なところはおさえるが、患者を前向きに生きさせるために言葉をかけなければならないこと。

 まあ、私がつかんだことを表現しようとしても、まだ消化もしきれていないし、伝わらないと思う。だけど、この先生の人生をかけた戦いをオモテに出すことができれば、広島と長崎、福島に通じる何者かをえぐり出し、被害者の苦痛を和らげることになるとは理解できる。何とかしてものにしたいけれど、そのためには自分がもっと成長しないとダメだよね。

 今朝、福島を出て、いま、東京事務所。これから京都に戻って、会議。連休に本を書こうと思っていたけれど、仕事で終わりそうだな。

2016年4月26日

 またまた、このタイトルで、「産経デジタル」に寄稿しました。ここからご覧できますが、いちおう、このブログでも紹介しておきます。本日は福島に向かい、数時間のインタビューをこなして、明日は夕方の会議のため京都に戻ってこなければなりません。引き続き忙しいです。

(以下、産経デジタルの記事)

●政治利用一般が問題だとは思わないけれど

 熊本地震の政治利用問題でネット空間が沸騰しているようだ。政府与党の側でいうと、憲法に緊急事態条項を規定するべきだという菅官房長官の発言、米軍機オスプレイを輸送のために投入した問題が議論になっている。野党の側でも、民進党のツイッターで、一般ユーザーの「東日本大震災時の自民党のような対応を望みます」とのツイートに反論してやりとりがあり、民主党が最終的にはその部分を削除することになった。共産党の池内さおり衆議院議員も、「川内原発今すぐ止めよ。正気の沙汰か!」とツイッターに投稿したが、現在は削除されているそうだ。

 それらを見ていて、自分自身の2001年の芸予地震の経験を思い出した。当時、私は共産党の参議院比例区の候補者をやっていたのだが、地震発生の時(3月24日午後3時27分)、広島県海田町で宣伝カーに乗って演説をしていた。車が大きく揺れ、これはただ事でないと感じ、夕方には被害の大きかった呉市に直行。被害の大きかった場所を調査するとともに、市議会議員とともに市役所の防災担当者に会って、要望などを聞き取ることになる。政治家の卵としては当然の行為だと思っていたが、いまから考えると、それで良かったのかと悔いは残る。防災担当者の仕事を妨げたかもしれないし、たかが候補者が政治を動かす何かができるわけでもなく、ただの売名行為だととられても仕方がなかった(当選しなかったのは「売名」にならなかったということだけれども)。

 政治家というのは、ある政治目的をもった人間である。どんな問題であれ、政治目的のために利用しようとするのは、ある意味で当然のことかもしれない。というか、政治利用を意図しなくても、政治家の発言や行動は政治的な意味をもち、結果として政治のための利用になる。だから、震災の政治利用が一般的に問題のあることだとは思わない。しかし、議論にはなるが炎上するまでにはならない発言や行為もあれば、炎上して凍結されるものもある。それを分けるのはなんなのだろうか。

●政治的意図の有無と批判は別問題

 オスプレイの問題が分かりやすいかもしれない。

 今回のオスプレイ投入が政治利用であることは疑いないと思う。東日本大震災と比べ、輸送手段が決定的に不足しているわけでもないのに、わざわざ米軍に依頼するのが、そもそも「日米連携」の強固さをうたう政治的な意図がある。その輸送手段にしても、別のやり方はあるのにわざわざオスプレイを使うのは、この際、国民に不安が残っているマイナスイメージを払拭したいという意図と無縁ではなかろう。

 しかし、それは政治的意図である。今回のような非常時の場合、問題を評価する基準がどこにあるかといえば、政治的意図に不純なものが含まれるかどうかではない。あくまで、それが少しでも被災者の役に立つかどうかだ。オスプレイが他の輸送手段と比べて十分かどうかの議論はあっても、それが被災者の役に立つ物資を運ぶという事実に変わりはない。そういう場合、オスプレイ投入の政治的な意図は批判することはあってもいいが、投入自体を批判するようなことがあると、被災者を助ける行為を妨害していると受け取られることになってしまう。

 オスプレイ投入自体への批判が正当性をもつとしたら、それが被災者に迷惑をかけるという論理が通用する場合だけだ。実際、過去のいろいろな場面で、オスプレイが起こした問題が指摘されている。2014年、和歌山県で実施された防災訓練において、オスプレイの離陸後に排気熱で芝が焼け、消火活動に追われるという本末転倒の事態が起きたそうだ。15年4月のネパール地震の際、オスプレイが被災者救援中、民家の屋根を吹き飛ばしたこともあるという。

 ただ、米軍だってそういうことは考慮して離発着場所は決めるだろうし、投入によって得られる「実益」があるわけだ。だから、投入反対というより、せいぜいどっちが利益かという比較考量の話になるだろうとは思う。

●政治利用の「度」の問題も

 野党の問題はどうだろうか。民進党のツイッターの話は、あまりに水準が低いし、民進党自体が事実上反省していると思うので、ここでは取り上げない。池内さおり議員の行為にだけ言及する。

 今回の地震が発生したとき、「川内原発は大丈夫だろうか」と思ったのは、池内議員に限らないと思う。私もそうだった。民進党も停止を求めることはしないという結論になったようだが、そういう声はずいぶんあがっていたようだ。共産党は16日、稼働停止を政府に求めている。これも震災の政治利用と言えば政治利用だが、それで共産党に批判が殺到したという話は聞かない。

 それなのになぜ、池内議員のツイッターが問題になったのか。一つは、政治利用の「度」が過ぎたということがあると思う。今回の地震があったことにより、「こんな地震国で原発を稼働させていて大丈夫なのか」という不安が広がったのは当然であり、どこであれ再稼働はやめようね、稼働しているものは停止しようねというなら、それなりに根拠をもった発言となり、問題にならなかったと思う。共産党の申し入れが問題にならないのと同じだ。

 一方、池内議員のツイッターは、まさに熊本で地震があったのを直接に受けるかたちで、「川内原発今すぐ止めよ」とするものであった。しかも、この人の特徴であるが、「正気の沙汰か!」という激しい言葉を使ってそれを求めていた。しかし、実際の川内原発は、震災にもかかわらず正常に運転されている。だから、川内原発が正常であろうが不正常であろうが、とにかく何でも稼働停止に利用するんだと受け取られたのが、強く批判されることになったのだと感じる。

 しかも、オスプレイの箇所で触れたように、いま大事なのは実際に被災者の役に立つかどうかである。政治家としてそれをしているかである。そのために池内議員がどれだけ努力しているかは知らないが(共産党が努力していることは知っている)、政治家ならば、その分野で努力し、それをツイートしてアピールするのが本筋だろう。そういうツイートをたくさんしているのに、ツイッターの特性で、原発問題だけが肥大化して取り上げられているのかもしれないけれど。

 激しい言葉は熱狂的な支持者をつなぎ止めるには有効だが、政治家のつとめは、考えの異なる人々を獲得することにある。その点では、まだまだ成長途上ということだろう。

●最も問題なのは菅官房長官の改憲発言

 なお、震災が発生して以降の政治家の言論で、もっとも問題だと思っているのは、菅官房長官の発言である。15日の記者会見で、「今回のような大規模災害が発生したような緊急時に国民の安全を守るために、国家、国民みずからがどのような役割を果たすべきかを憲法にどのように位置づけるかについては大切な課題だ」と発言したことである。

 何といっても、今回の震災で被災者救援にあたる中心にあるべき人である。そのための仕事をしていないとまでは言わないが、本来なら身心のすべてを被災者に向けなければならないのに、かなりの部分が震災をどう改憲に利用するかに向かっていたわけだから、被災者にとって困ったことである。

 しかも、すでに多くの方が指摘していることだが、現実の事態の進行は、行政権力に権限を集中させることの問題を浮き彫りにした。初日、政府が「青空避難」を解消せよと主張し、それに対して、熊本県知事が、「避難所が足りなくてみなさんがあそこに出たわけではない。余震が怖くて部屋の中にいられないから出たんだ」と不快感を示したとされる。

 私は、今回の震災で、安倍首相がいろいろ努力していることは評価しているし、熊本の方々のためにがんばり抜いてほしいという気持ちも持っている。「青空避難」の解消ということも、テレビその他で被災者の姿を見ていて、そういう気持ちが湧いてくるのは自然かもしれない。私だって、車で寝泊まりしている人の話を聞いていると、何とかならないかと感じることもある。

 だから、「青空避難」の解消は、善意で主張したわけだ。非常事態条項導入の意図としてよく言われるように、独裁者が権力を集中して振り回そうという意図で発言しているわけではないことは分かる。菅さんの発言も、せいぜい、こういう非常時に行政機関や自治体を整然と動かすかっこいい政府指導者像を念頭に置いた発言、という程度のことだったかもしれない。

 けれども、今回の事態は、災害という非常事態において、現場にいるわけでもない人に権力を集中してしまうと、現実とかけ離れた対策がとられてしまう可能性があることを示した。いまの体制なら、政府が何かやろうとしても、現場にいる人たちの主張があって是正されるが、権力が集中されてしまうと、そういう力が働かなくなるということだ。

 安倍首相や自民党が、今回の事態から、そういう教訓を導き出せるのか。そのことがいまの私の最大の関心事である。

2016年4月25日

 先週金曜日はブログを書かずに申し訳ありませんでした。お葬式を2つ回って、そのまま「自衛隊を活かす会」のシンポジウムに突入したので、まったく余裕がありませんでした。そのお葬式のうちの1つは、私が秘書として3年間仕えた金子満広さんのものでした。「人生いつも始発駅」が信条の方でしたが、それって私にとっても大事な問いかけとなっています。ご冥福をお祈りします。

 さて、北海道の選挙、残念でしたね。野党共闘の効果は、新党大地の票が民進党から自民党に移った分を取り戻す程度にはあったけれども、ひっくり返すほどの勢いはなかったということでしょう。これが成功するための課題は多いし、大きいのだと思います。

 やはり、1つは野合論です。野党候補は、千歳市、恵庭市、新篠津村、当別町で与党候補に負けています。自衛隊員が多いところですよね。北海道新聞の調査では、20代から40代は与党候補への投票が多いということですから、それとあわせれば、自衛隊員の票で負けたという見方も成り立ちます。

 本来、新安保法制が焦点となり、自衛隊員が危惧を持っていますから、これを廃止するという主張は、自衛隊員にこそ届かなければなりませんでした。いえ、届いたとは思うのですが、それよりも野党の安全保障論への危惧がまさっていたということでしょうか。

 野合論をめぐっては、いろいろな論評や弁明がありましたが、自衛隊が日本の平和にとって欠かせないという見地で、野党がまとまれるのか。将来は別にして、現在はそこで一致していると堂々と言えるのか。そのあたりが、これからのカギをにぎりそうです。

 もう1つは、経済です。いろいろあっても、有権者の大半は経済・暮らしを投票の判断材料としています。ところが、その分野で野党に信頼が置けないわけです。民主党は大失敗して実績をあげられる機会を逃しましたし、共産党は政権運営の実績がない。いくらいいことを言っても、経済を預けるというのは、信頼がないとできないでしょう。

 ダブル選挙があったらあきらめるつもりだったのですが、総選挙が先延ばしになりそうなので、この点で1つ挑戦するつもりです。安全保障の分野では、元防衛官僚の柳沢協二さんが「自衛隊を活かす会」の代表として活躍しておられるので、その提言への賛否はどうあれ、素人が勝手なことを言っているという状況ではないと思います。戦争の現場を一番知っている伊勢崎賢治さんや加藤朗さんも加わっていますし。

 そういうものが経済分野でも必要だというのが私の考えです。ずっと考え続けていたのですが、ようやく手がかりが見つかりそうです。名づけるとすると、「経済企画庁を再建する会」かな。時間はかかると思いますが、挑戦してみます。

2016年4月21日

 安保条約の廃棄と自衛隊解消が日本を変革する上で大事な課題だと位置づけながら、それを国民連合政府では留保し、安保条約と自衛隊を使うとする逆方向の立場を取る場合、二つのやり方があると思う。

 一つは、井上議員のテレビでの発言のように、「国民のみなさんがそれで安全が守れると思わなければ、できないし、やらない」ということだ。つまり、安保廃棄と自衛隊解消という共産党の考え方は変わらないが、それが国民の支持を得ていないことを率直に認めて、国民の考えを基礎にして当面の政策を打ちだすことだ。

 ただ、共産党の考えが変わらないということだと、「共産党は大事なことが分かっているのに、国民はまだ分かっていない」という態度のように見えてしまう。それより何より、安保を廃棄しないと平和が保たれないと考えているのに安保を容認するのはおかしいと批判されたら、整合性が問われることになるだろう。それとも、共産党の考えは変わらないが、政府としては安保や自衛隊の有効性を認めるという、ある種の使い分けをするのだろうか。

 もう一つは、少なくとも当面は、安保条約と自衛隊を維持することが平和にとって意味があると認めてしまうことである。スッキリした立場に立つことだ。

 私自身は、この立場に近い。日本の平和と安全のためには、当面、防衛力と外交力を適切に組み合わせることが必要なかなり長期にわたる段階があると思う。そして、その段階で日本と周辺に長期間にわたる実際の安定期が続くことによってこそ、ようやく防衛力の解消が問題になる段階が訪れるかもしれないという立場である。

 防衛力が当面必要とされるといっても、いまの安倍政権とは中身が違っていて、「自衛隊を活かす会」が打ちだしているような「専守防衛」の防衛力である。日米安保にしても、その日本の立場を鮮明に打ちだし、アメリカに理解させていくような立場である。

 共産党の綱領は、正確に言うと、安保条約の廃棄については、無条件で進める立場である。一方、自衛隊については、少し慎重だ。次のように言っている。

 「自衛隊については、海外派兵立法をやめ、軍縮の措置をとる。安保条約廃棄後のアジア情勢の新しい展開を踏まえつつ、国民の合意での憲法第九条の完全実施(自衛隊の解消)に向かっての前進をはかる」

 自衛隊の解消は、安保廃棄のように無条件でやるとはしていない。安保廃棄後、アジアに安定が訪れるということを想定し、その展開次第で、ようやく解消に踏み切れるという立場である。

 つまり、安保廃棄以前はもちろん、それ以降も、自衛隊の防衛力が維持される時期があるというのである。防衛力を維持することが、ただ国民の理解が解消にまで至らないという理由からなのか、それとも平和にとって意味があるという理由からなのかは、ここからは見えてこない。

 しかし、後者だということを認めてしまうなら、国民連合政府で自衛隊を維持するということは、整合性のある立場だということになると思う。安保を維持することの整合性までは、綱領からは出てこないけれど。(了)