2016年10月28日

 北方領土をめぐる日ソ政府間交渉は、ソ連が崩壊するまで、まったくといっていいほど動きませんでした。日本政府が「4島一括返還」方針を打ち出すと、ソ連政府は「第二次大戦の結果として確定した。解決済み」という立場に変わり(60年安保改定も口実となりました)、お互いが日ソ共同宣言を脇に追いやることになって、かみ合うような議論になっていかなかったのです。

 そこに一つの風穴をあけたのが、共産党の新政策(昨日の記事)と、それにもとづく日ソ両共産党間の交渉でした。とりわけ79年末の交渉でした(日本側団長は宮本顕治)。ソ連側は、日本政府に対しては「解決済み」を繰り返していたのに、日本共産党に対しては、交渉の結果、「注意深く忍耐強く聞いた。それは私たちに聞く耳があるという証拠です」と応じた上で、公表された共同声明において、「(領土問題等を確定するための)日ソ平和条約を締結する」必要性を認め、「今後とも意見交換をつづけることで合意した」のです。

 共産党の代表団が帰国したあと、日本の外務省の幹部がこの結果を歓迎することを表明しました。日本政府は、ソ連崩壊後、「2島先行返還」論で事態を打開しようと試みるのですが(表面では「4島一括」と言いつつ)、その背景にあるのは、成果をあげた共産党の「2島先行返還」論だったと思います(ですから鈴木宗男さんらの「2島先行返還」論をなぜ共産党が批判したのか、いまでもよく分かりません)。

 共産党の新政策のポイントは、第二次大戦の結果として領土を獲得するということ自体への批判にありました。大戦の結果としてサンフランシスコ条約で千島を放棄したこと自体がおかしいということです。

 その論拠は二つあって、一つは、第二次大戦で連合国は、戦争の結果として領土の獲得は求めないという領土不拡大の原則を掲げただろうというものです。もう一つは、その領土不拡大という考え方は、第一次大戦でレーニンが先駆的に掲げたものであって、社会主義国こそがそれを守らなければならないというものです。

 このどちらがソ連側に突き刺さったのかは、会談に参加したソ連側の当事者でないと分かりませんが、おそらく後者だと思います。前者についてはソ連側はこれまで一貫して肯定的な見解をとったことがありません(理由は後述)。代表団長だった宮本さんは、帰国後、会談では「社会主義者の言葉」で語ったと述べています。いくら社会主義にふさわしくない行動をとっていても、ソ連の生みの親であるレーニンを否定することはできないわけで、ソ連側も「痛いところを突かれた」ということになったのでしょう。

 ただし、ソ連が崩壊してから、もう20数年が経っています。いまでは社会主義の言葉は通じないわけです。そういう時代にふさわしいアプローチが求められていると感じます。(続)