2017年2月28日

 いろいろ書こうと思ったけれど、話が複雑になるよなあ。そこで結論から書いちゃう。

 要するにこれまでのアプローチは、安保条約は百害あって一利なしだから、安保廃棄を国民多数派にして、国会の多数を占めて、アメリカに対して安保条約10条にもとづく廃棄通告を行うというものだった。そうすると、同じ10条に書いているように、条約は1年以内に終了し、そこではじめて日本の独立と平和が訪れるという考え方だった。

 だけど、そういう考え方だけに固執すると、もし安保容認の政権が続くなら、それは平和と独立を阻害する政権ということになる。だから、戦争法を廃止したあと、革新懇は、その政権を打倒の対象にしなければならなくなる。共産党が閣内にいようと閣外に出ていようと、そうしないと筋が通らない。

 でも、実際にはそうはならないだろう。例え安保容認の政権であっても、その枠内において、多少なりとも独立と平和に向かって努力するということになるのではないか。革新懇だって、それを後押しすることになるのではないか。日米安保の本質は侵略で、本質というのは変えることができないものだから、変える努力はしないという立場はとれないはずだ。

 例えば対テロ戦争。アメリカのやり方は間違っている。このままでは、ISに対する作戦の後方支援を求められることだって、あり得るものとして想定せざるを得ない。だから、アメリカを批判し、安保条約を廃棄して、日本がその間違いに加担しないようにするというのが、現在の考え方だろう。

 しかし、安保容認の野党共闘政権は、同盟国としてアメリカを批判し、説得し、やり方を変えさせるために努力するということになるだろう。そして、アメリカのやり方が変わらない場合も、日本はそれに追随することなく、独自に、本当に根源的な解決策を追求するということになるだろう。

 また例えば尖閣。現在の立場は、在日米軍の本質は侵略であって、日本防衛ではないというものだろう。だから、尖閣の防衛など、アメリカが関与することなどあり得ないということだろう。

 だけど、安保容認の野党共闘政権は、日本は専守防衛に徹して、アメリカの侵略には加担しない姿勢を貫くということになる。そして、在日米軍に対しては、尖閣防衛をはじめ日本防衛のために力を入れるよう求めるということになる。

 その努力の結果、本質は変わらなかったということで、やはり安保は廃棄ということになっていくのかもしれない。だけど、変えるために努力しないという立場はとれないだろう。でも、そうすると、新しい問題が生まれる。(続)

2017年2月27日

 先日、大阪のある革新懇で講演した際、考え込むことがあった。この記事のタイトルのことである。

 私は、野党共闘政権が対米従属を打開する展望についてお話ししたわけだが、ご存じのように、この野党政権は日米安保を認める政権なのである。だから、野党共闘政権を支持する私は、日米安保のもとであっても、対米従属を打ち破り、アジアの平和と安定をもたらす可能性を論じるわけだ。

 しかし、革新懇(正式には「平和・民主・革新の日本をめざす全国の会」)は81年に結成されたが、その動機が社会党が79年に日米安保を容認するのを受けたことにあったように、安保を否定することが組織の核心だ。この「会」に参加できるのは「目的」に賛同する個人、団体であるが、その「目的」の柱になっているのが、「日米安保条約をなくし、非核・非同盟・中立の平和な日本をめざします」ということなのだ。安保があるかぎり、対米従属も打破できないし、平和な日本もつくれないと訴えてきた。

 だから、野党共闘政権が日本の独立と平和にとって意味があるという私の話は、とまどいを生み出したと思う。でも一方で、その革新懇も現在、野党共闘政権を支持し、実現のために全力をあげている。これまでだったら、安保を容認する政権が目の前にあれば、それだけで批判の対象だったのに、現在は推進する立場なのだ。

 日米安保が諸悪の根源だということは批判しつつ、野党共闘政権は戦争法廃止と立憲主義回復に意味があるのだということになっている。いや、言葉では、何とでも言える。だけど、実際にお話しする立場に立つと、それを両立させることは簡単ではない。

 例えば、戦争法を廃止したとして、その後、革新懇は野党共闘政権を批判する立場に回るのだろうか。あるいは共産党は、そこで政権から退き、解散・総選挙を求めるのか。次は安保条約を廃棄する政権をめざすということになるのか。

 筋論から行くと、そうなるだろう。だって、安保があるかぎり、意味のあることはできないという立場でずっとやってきたのだから。23日に「赤旗」で「「日米安保第一」を問う」というシリーズが開始されたが(1回で終わりかな?)、その論調もそのようなものだった。「そんなヒドいものだったら容認する政権をいつまでも支持できないよね」と感じさせるものだった。

 でも、果たしてそうなのか。なんだか、そもそもの発想というか、アプローチの仕方そのものを根本的に見直さないといけないように感じるのだ。まったく新しい事態に直面しているわけだから。(続)

2017年2月24日

 在韓日本大使館前の慰安婦像の問題。これは難しい。

 その中で昨日、釜山の総領事館前の像を移設するよう、韓国外相が自治体に要請したことは大事である。ところが、そうやって韓国側が動いても、日本大使の一時帰国問題では何の動きもない。日本側は、合意を尊重しようとする動きを励まさないといけないのに、困ったことである。

 いずれにせよ、これは難しい。だから、一昨年末の日韓政府合意においても、韓国政府が「適切に解決されるよう努力する」として、ぼかしたわけだ。移転することを明示できなかったのだ。

 この問題での私の立場は、日韓合意の半年ほど前に書いた『慰安婦問題をこれで終わらせる。」で述べている。慰安婦像を包み込むような形でモニュメントをつくり、日韓和解の象徴とするということだ。慰安婦像はモニュメントのなかで安らかな眠りに入るという構想だ。

 この本では、日韓がどこで合意すべきかについて、「法的責任」も「人道的責任」も経過からして使えない言葉だから、「歴史的責任」にしたらどうかと提案していた。結果、日韓合意においてはただの「責任」になったんですけど、まあ先駆的だったと自負しています。

 さて、大使館前に像があることは、外交関係に関するウィーン条約(第22条2項)で問題だとされる。大使館を受け入れている国は、「公館の安寧の妨害又は公館の威厳の侵害を防止するため適当なすべての措置を執る特別の責務」があるとするものだ。この条約規定からして、日本を批判し、糾弾するために設置されている像が大使館前にあるのは、やはり適切でないだろう。

 ただし、像が問題なのは、いま書いたように日本を糾弾することと密接に結びついているからだ。もし、一昨年末の合意を遂行することで両国民が納得し、和解すれば事態は変わるのである。

 韓国側には、長年にわたって心のよりどころだった像を移転することについて、いろいろな反発もあるだろう。それならば、像そのものは現状の場所に置くが、それを包み込むようにして和解のモニュメントを建てることは、20年以上にわたって日韓関係を厳しいものにしてきたこの問題が解決したことを象徴的にあらわすものとして、受け入れてもらえるのではないだろうか。

 モニュメントの除幕式には、安倍さんが出てきて、合意の線にそって「心からのお詫び」をすることだって考えられる。本当にそういう日が来ることを願っている。

 さて、来週は、日米安保の問題と、それを認める野党共闘の関係について考察したいと思います。最近、日米安保廃棄を掲げて頑張ってきた「革新懇」の集まりでお話しすることが多いんですが、野党共闘は望むけれども、それが安保容認の上に成り立っていることとの関係で、いろいろな矛盾を抱え込んでいるように思えます。革新懇の中心にいる共産党の「赤旗」も昨日から、「「日米同盟第一」を問う」という鳴り物入りの大シリーズの連載を開始しましたが(なぜか本日は続きがない)、それと日米同盟を容認する野党共闘との関係は、すごく大事な論点になってくると思います。だから私も考えたいのです。

2017年2月23日

 前回の記事につけ加えて言えば、法的な決着がついたとしても、補足的、追加的な措置をとることはあり得ることだ。法的な決着がついた時点では問題にならなかったことが、その後判明して大きな問題になることがある。慰安婦問題が1965年の条約締結時には知られていなかったことかといえば微妙であるが、大きな問題でなかったことは事実だろう。だから、そういう場合、のちに何らかの措置を取ることはあり得る。

 けれども、そういう場合に取り得る措置は、あくまで補足的なものである。法的な決着はついていないから新たな枠組みをつくるというものではなく、法的な決着に追加するものである。そして、一昨年末の日韓政府合意は、そういう性格のものだったと考える。日本政府が「責任」を認め、反省とお詫びを表明し、全額を日本国民の税金で支払ったのだから。

 それなのに問題は解決していない。では、どうするべきか。私の考えはこうである。

 日本政府の側は、この問題で心から責任を認め、反省し、お詫びする立場を貫くことである。慰安婦の側は、日本政府が法的な責任を認めるかどうかを争点にせず、心からのお詫びを求め続けるという一点で団結することである。

 対立構図でいうと、こんな感じにすることだ。「心からお詫びができない日本政府」VS「法的責任は決着していないと考える人々」+「法的責任は決着しているが何らかの措置は必要だと考える人々」。

 だって、慰安婦の方々が求めているのは、「心からのお詫び」でしょ。そうじゃなかったんでしょうか。それと法的な決着が混同されてきたことに、問題がいつまでも解決しない原因があったと思います。

 安倍さんに「心からのお詫び」をしてもらうことって、本当に大変なことですよ。この連載でも書いてきたように、侵略と植民地支配を推進してきた末裔なんですから。国家の指導者として法的な決着をすることはできても、心を入れ替えるなんて、簡単なことではないんです。

 実際、戦前の日本がヒドいことをしたという心を安倍さんが持つことは、やはり困難なことでしょう。だけど、少なくとも、跪いたブラントさんのように、心を感じさせることはできると思います。

 具体的に言えば、一昨年末の合意で表明したことを、あの日一回限りのこととせず、どんな場合にも貫くことでしょう。折にふれて、あの中身を語るべきです。安倍さんは「あの合意で不可逆的と書いている」ことばかり口にしますが、「責任」「反省」「お詫び」こそ何回も語っていくべきでしょう。すでに表明済みのことですから、できるはずです。

 そして、慰安婦の側は、法的決着を求めるのに固執しないことです。決着済みと考える人との連帯を図るべきです。そうすれば、日本でも韓国でも、幅広い人々の連帯が実現するはずです。

 問題は、慰安婦像ですよね。それは明日の最終回で。(続)

2017年2月22日

 本日は忙しいです。気持ちが落ち着かない事情もあるし。ということで、連載はお休みして、このタイトルの記事を。

 評したのは、岸田秀さんとの柳澤健さんの『日本史を精神分析する』という本です。すでに「福島民友」(18日付。福島のみなさん、気がつきましたか?)その他に載りました。

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 いやあ、新聞の書評って、書いたの初めてですよ。わずか800字以内ですから、たいへんでした。

 なぜ私がこの本の書評を依頼されたのかって、理解不能ですよね。最近、『「日本会議」史観の乗り越え方』を書いたからかなと思ったら、違っていました。

 この本、掲載された書評にも書いていますが、帯文の冒頭に、「なぜ日本は対米従属の軛を脱することができないのか」という問題意識があるんですよ。それで、『対米従属の謎』を書いたばかりの私に、ということになったそうです。私の本の書評が載るんだったら、なおうれしかったんですけど、いい勉強になりました。

 この内容をブログに書くことは許されていないんです。だけど、紙面をアップするのは構わないということで、読みやすそうな「山梨日日」(19日付)を載せておきますね。

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