2017年2月27日

 先日、大阪のある革新懇で講演した際、考え込むことがあった。この記事のタイトルのことである。

 私は、野党共闘政権が対米従属を打開する展望についてお話ししたわけだが、ご存じのように、この野党政権は日米安保を認める政権なのである。だから、野党共闘政権を支持する私は、日米安保のもとであっても、対米従属を打ち破り、アジアの平和と安定をもたらす可能性を論じるわけだ。

 しかし、革新懇(正式には「平和・民主・革新の日本をめざす全国の会」)は81年に結成されたが、その動機が社会党が79年に日米安保を容認するのを受けたことにあったように、安保を否定することが組織の核心だ。この「会」に参加できるのは「目的」に賛同する個人、団体であるが、その「目的」の柱になっているのが、「日米安保条約をなくし、非核・非同盟・中立の平和な日本をめざします」ということなのだ。安保があるかぎり、対米従属も打破できないし、平和な日本もつくれないと訴えてきた。

 だから、野党共闘政権が日本の独立と平和にとって意味があるという私の話は、とまどいを生み出したと思う。でも一方で、その革新懇も現在、野党共闘政権を支持し、実現のために全力をあげている。これまでだったら、安保を容認する政権が目の前にあれば、それだけで批判の対象だったのに、現在は推進する立場なのだ。

 日米安保が諸悪の根源だということは批判しつつ、野党共闘政権は戦争法廃止と立憲主義回復に意味があるのだということになっている。いや、言葉では、何とでも言える。だけど、実際にお話しする立場に立つと、それを両立させることは簡単ではない。

 例えば、戦争法を廃止したとして、その後、革新懇は野党共闘政権を批判する立場に回るのだろうか。あるいは共産党は、そこで政権から退き、解散・総選挙を求めるのか。次は安保条約を廃棄する政権をめざすということになるのか。

 筋論から行くと、そうなるだろう。だって、安保があるかぎり、意味のあることはできないという立場でずっとやってきたのだから。23日に「赤旗」で「「日米安保第一」を問う」というシリーズが開始されたが(1回で終わりかな?)、その論調もそのようなものだった。「そんなヒドいものだったら容認する政権をいつまでも支持できないよね」と感じさせるものだった。

 でも、果たしてそうなのか。なんだか、そもそもの発想というか、アプローチの仕方そのものを根本的に見直さないといけないように感じるのだ。まったく新しい事態に直面しているわけだから。(続)