2017年2月20日

 先日、ビデオニュースドットコムに出演し、宮台真司さん、神保哲生さんと「何があっても日本はアメリカについていくしかないのか」をテーマに議論してきました。ここで見ることができます。

 現在、慰安婦問題をめぐる対立構図は、「法的責任を明確にした賠償」VS「法的責任を曖昧にした全額税支出」にあるように思える。そして、この構図が変わらないかぎり、問題は永続化するしかない。では、どうするのか。

 それを考える上で、ドイツとの比較を簡単に(おおざっぱに)試みたい。ドイツでもそれが問われ、それが解決したということなのだろうか。

 ドイツのことを考えてみると、よく日本との比較で「ドイツは優れている」とされるのは、2つの点がある。1つは、ドイツは個人に対して補償をしたけれども、日本はしていないということ。2つは、ドイツの謝罪は心がこもっているということだ。

 まず後者について言うと、それは確かだと感じる。ドイツの場合、有名なワイツゼッカーの演説しかり、ワルシャワのユダヤ人ゲットー跡で跪いたブラントしかり、相手の心に響くような象徴的な言葉と行動があった。それはそういう個人のものだけではなく、被害者に対して謝罪し続けるということは、政府の指導者に共通するものとして、現在まで受け継がれていると思う。

 一方、日本の場合、河野洋平氏などは例外的な存在だと言えるだろう。さすがに政府の指導者で慰安婦のことを「娼婦」などと表現する人は見かけないが、心からの反省と謝罪をしていると感じさせる人も、また存在しない。一昨年末の日韓政府合意のなかで、「安倍内閣総理大臣は,日本国の内閣総理大臣として改めて,慰安婦として数多の苦痛を経験され,心身にわたり癒しがたい傷を負われた全ての方々に対し,心からおわびと反省の気持ちを表明する」とされているのに、じゃあその言葉を慰安婦の方々の手紙にしてほしいと言われると、それは拒否された。もう言ったんだからいいだろう、1回言えば終わりなのだ、という真意が見えてしまう。

 こういう違いが生まれるのには理由がある。戦後の政治家の系譜が違うのである。

 ドイツの場合、戦後の指導者になったのは、戦前、ナチスに逆らって政治家を追われ、隠遁したり、亡命したりした人が主流だった。ナチスが犯した罪を批判する立場をとることに、何のちゅうちょも不要だったのだ。

 一方の日本では、戦前、朝鮮半島を植民地とし、侵略を主導した人たちが、アメリカに忠誠を誓うことによって政府の指導者となった。アメリカが日本を反共の砦として活用することを決めて以降は、そのしばりもなくなって、戦争犯罪者が復権してきた。だから、慰安婦問題をはじめ自分がやったことなので、反省するなど思いもしなかったのだ。その系譜の人たちが、安倍さんをはじめ、いまも政権を担っている。

 だから私は、心からの謝罪ができるかどうかが、この問題ではいちばん大事だと思っている。そこに対立構図があると考える。ところが日韓合意反対派は、そこではなく「法的責任を認める」ことだけを焦点にしているようだ。で、次に、その法的責任問題である。(続)