2017年2月16日

 河野談話と日韓政府合意とを比べ、後者が優れていることは、事実によって明らかだ。その事実とは何かというと、慰安婦の方々に渡されるおカネの性格が、それぞれで決定的に違うことである。

 よく知られているように、河野談話にもとづいて設立されたアジア女性基金は民間基金と称され、慰安婦の方々に拠出したお金も民間の募金とされた。基金の運営資金として税金が投入され、それなりの額に達したようだが、慰安婦の方々に税金は渡されなかった。

 一方、今回、韓国に設立された基金から慰安婦の方々に渡されるお金は、全額が日本の税金である。民間資金は1円も投入されない。誰が見てもアジア女性基金との違いはあきらかだろう。

 アジア女性基金がなぜ民間基金と言われたかというと、政府間の法的な問題は、65年の日韓条約と請求権協定で決着済みだとみなされたからである。税金を投入して対処すべきような新たな法的問題は存在しないと考えられたのである。

 河野談話も、日本政府に法的な責任があるとは認めていない。「慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した」「本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である」「心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる」。

 「強制」という言葉、あるいはその意味内容の言葉がいくつか使われてはいる。例えば「本人たちの意思に反して集められた事例」などである。しかしそれも、「業者が主としてこれに当たった」として、日本軍が強制したという構造ではない。日本軍がやれば政府の法的責任が生じることになろだろうし、法的責任がなくても何らかの責任が生じることは明らかだが、やはり法的責任はないというのが河野談話なのである。

 一昨年末の日韓合意はどうか。「慰安婦問題は,当時の軍の関与の下に,多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であり,かかる観点から,日本政府は責任を痛感している」「安倍内閣総理大臣は,日本国の内閣総理大臣として改めて,慰安婦として数多の苦痛を経験され,心身にわたり癒しがたい傷を負われた全ての方々に対し,心からおわびと反省の気持ちを表明する」

 基本的に河野談話と同じ水準であることが分かるだろう。「責任」という言葉は使っている分、河野談話より「上」と言ってもいいほどだ。その上に、全額税金で慰安婦におカネを渡すというわけだから、事実上、国家による個人保障と言ってもいいほどだ。法的形式にこだわる日本政府はそう認めないので「賠償」という言葉は使わないし、だから日韓合意否定派の餌食になるわけだが、河野談話にもとづくアジア女性基金よりも水準が高いのだ。 

 それなのになぜ、河野談話は好意的に受けとめられていて、それを超える水準を達成した安倍さんは嫌われるのか。そのねじれの中に、この問題を解くカギがあると感じる。(続)