2017年10月4日

 この部分、選挙の結果を受けて全面的に書き換えることになると思われます。幻の「あとがき」になるでしょうから、いまのうちに出しておきましょう。
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 本書のような内容のものを書きたいと思ったのは、いまから一年ほど前のことです。ただし、本気になって執筆を開始したのは、安倍首相が加憲案を打ち出した二〇一七年五月三日でした。その報道を聞いて、「やっぱりこれで来たか」と思いました。公明党が加憲を主張しはじめた十数年前から、もし九条改憲が国民的な支持を得るとしたら、このような案以外には考えられないと感じてきたからです。

 それでも、執筆に本気になったのは、改憲されることそれ自体への危機感からではありません。加憲案に対する護憲派の反応が気になったからです。誰が見ても、安倍首相の案は、戦力不保持や交戦権の否認を規定した九条二項を削除して国防軍を設けるという自民党本来の改憲案と比べて、かなり穏やかなものです。ところが、護憲派の多くは、自民党案とまるで変わらない最悪の案であるかのように加憲案を批判していました。「この案だと国民の共感を得るかもしれない」という危機感の裏返しでもあるのでしょうが、最悪の案であることを証明するために、あれこれの論拠を無理して持ち出していると思えるものもありました。公明党の考え方を援用したものであることは明白なのに、「日本会議が主導した案だ」として問題にする人もいましたが、それが通用するのは、日本会議をおどろおどろしいものと描いている人々のなかだけのことでしょう。私にとっては、日本会議や安倍首相が、改憲を実現するためには二項を廃止するという目標を取り下げる決断力があり、そこで結束する団結力があることは、「敵ながらあっぱれ」に見えました。

 加憲案に日本の将来を危うくするという要素があることは事実です。本文で私もそう書いています。しかし、護憲派がどんなに説得力のある批判を展開したとしても、結論として「自衛隊は絶対に憲法に明記してはならない」という姿勢が示されるわけです。自衛隊を明記しようという加憲案と明記を許さないという護憲派の対応を並べて見れば、改憲派と護憲派の争いの焦点は、自衛隊を認めるかどうかにあると国民の目に映ることは必定です。そうなってしまえば、圧倒的多数は自衛隊に共感を持っている世論の現状において、護憲派は見放されるのではないかと感じたのです。だから、別の論点を提示しなければならないと、痛切に思ったのです。

 本書で提示したことは、護憲派には評判が良くないでしょう(改憲派からも評価されないでしょうが)。誤解を怖れずに本書の内容を一言で象徴的に表現するとすれば、加憲案は四五点だけれど、護憲のままでも五五点程度だよねということです。護憲を選ぼうと訴える場合、一〇〇点に近づけるためには、護憲によって残される矛盾を解決するため、これまで想像もしなかったような覚悟と努力が求められるということです。その覚悟は護憲派が持たなければならないということです。

 加憲案を零点かマイナス点だと批判し、九条をピュアに一〇〇点満点のものとして描くのが、これまでの護憲派のやり方です。しかし、護憲派とはすべてがそういう人たちだと捉えられては、護憲の主張が広がることはないと思います。改憲か護憲かの帰趨を決めるのは、圧倒的多数の中間層だからです。加憲案にも護憲の立場にも、それぞれ問題もあればいいところもあると感じている人々だからです。改憲には漠然とした不安を感じるけれども、自衛隊を否定的に捉える論調にも同調できない人々だからです。そういう人々を相手にして、地に足のついた改憲・護憲論を提示したかったのです。

 「九条と自衛隊の共存」。本文で書きましたが、国民世論の現状はそこにあります。加憲案が支持されるとすれば、その国民世論に正面から応えた案だからです。改憲国民投票が現実のものとなる時代に、護憲派にも「九条と自衛隊の共存」をどう実現していくのか、真剣な探究と世論への提示が求められるのではないでしょうか。本書が、そういう護憲派による努力の一環として、多少でも役割を果たすことができれば幸いです。

 本書の着想に至るまでは、私を講演会に呼んでいただいた護憲派の方々はもちろん、著名な改憲派との討論会を組織してくれた方々など、多くの方々との議論がありました。感謝します。ありがとうございました。