2017年10月18日

 昨日、京都の福知山で開かれた「高齢者大学」というところで(実際に大学の教室を使う)、護憲派の安全保障政策の必要性とその内容について語ってきた。何十名もの参加者のみなさん全員が高齢者だったが、熱心に聞いていただき、ありがたいことだった。

 北朝鮮の核・ミサイル問題をめぐっては、なかなか複雑な状況が生まれている。軍事的な選択肢が排除されていない一方、経済制裁などの圧力が強められ、他方では対話と外交でないと解決しないという立場もある。

 護憲派は対話重視ということだが、昨日の参加者も含め、それは望ましいことだと思っていても、そう簡単ではないという現実もよくわかっている。だから、護憲派のなかでも、軍事対応はダメだが、経済制裁の必要性は認めるのが大勢だ。

 しかし、経済制裁というのは、本来、対話の可能性が尽きたあとで実施されるものである。国連憲章の構造を見ていただくとわかるが、第6章に「紛争の平和的解決」として「交渉、審査、仲介、調停、仲裁裁判、司法的解決」などが列挙される。そして、それらで解決しない場合、第7章に移行し、国連安保理は、「平和に対する脅威、平和の破壊又は侵略行為の存在を決定」し、次の措置に移るわけだ。その措置の第一歩目が「経済制裁」であり、それでもダメな場合「軍事制裁」にステップアップするという構造になっている。

 つまり、経済制裁しているということは、対話の可能性が尽きたことを意味するわけである。まあ、もちろん、国際政治は複雑で、憲章の文面通りに動くわけではないけれど、制裁している相手との対話というのが簡単でないことは肝に銘じておくべきことだ。制裁というのは、「お前は平和の破壊者だ」と断定した上でやっていることなのだから。

 昨日は、北朝鮮との間で対話の可能性が尽き、軍事衝突が起きる可能性も念頭において、護憲派もやはり安全保障を考えなければならないというお話をした。しかし、それだけだと、「いや、対話だけでなんとかなるんだ」という考えの人も少なくないので、まず「対話の可能性はどこにあるのか」というお話に時間を割いた。「対話、対話」と言っても、対話の中身が大事なので、90年代以来、北朝鮮の核・ミサイル問題を解決するために、どんな対話が行われてきて、それがなぜ失敗してきたのかというお話である。

 その総括を抜きに「対話」と言っても、安倍首相がいう「対話のための対話」になってしまう。過去の対話が失敗したのなら、失敗しない対話の中身を提示しないと、護憲派失格である。

 ということで、私が依拠したのは、ケネス・キノネスの2冊の本である。『北朝鮮―米国務省担当官の交渉秘録』と『北朝鮮Ⅱ―核の秘密都市寧辺を往く』。どちらも500ページほどあって、しかも2段組。刊行された21世紀初頭に読んだが、いまの危機のなかで再読すべきものだと考え、目を通した上で、昨日のお話になった。

 というところで、本日は時間切れ。ブログに費やすのは1日30分なもので。本日夜は、来年の憲法国民投票に向けて特集を考えている某雑誌編集部の方が京都までやってくるので、ご相談に応じる。高級レストランでの接待かな?