2013年8月9日

 長崎の原水禁大会が終わりました。オリバー・ストーン監督効果ですかね、いつもより少し参加者も多かったかな、この連載も、本日で終わりです。

 当時のドイツと現在の日本では、かなり事情が異なる。まず、ドイツ共産党はワイマール憲法を敵視していたが、日本では現憲法擁護で一致点がある。社民主要打撃論には立たないという一般的な方針もある。政権共闘をすすめる一致点はないが、地方レベルとか課題ごととかでは、部分的な協力関係も存在する。

 だけど、麻生発言で考えなければならなくなったのは、政権が暴力的な弾圧を特定政党に各個撃破的に加えることになったときのことだ。自分たちは弾圧されていないが、別の政党が弾圧されているときに、その弾圧を自分への弾圧だとみなして、手を差し伸べることができるほどの関係があるのかということだ。黙っていたら自分は(当面は)弾圧されないが、手を差し伸べれば自分も収容所行きなのに、それでも助けるためには、そうとう高いレベルの信頼関係が必要だろう。麻生発言はジョークだからとみなすのなら、そんなことは考えないでもいいだろうが、麻生発言を本音だと位置づけるなら、そういうことも考えておかないといけない。

 実は、当時のドイツでも、中央レベルではほとんど信頼関係はなかったけれども、国民のなかでは、協力関係がすすんでいた。中央での共産党と社会民主党の対立をよそに、現場では共産党員と社会民主党員を中心にして、自警団や統一委員会がつくられる。その事務所ではレーニンとべーベルの像が掲げられていたそうだ。そして、それらが1932年には「反ファッショ行動委員会」へと発展していく。32年11月の選挙でナチスが議席を減らしたのは、そういう国民的な規模での闘いの反映だったといえる。

 けれども、それほどの国民の世論、運動があっても、ドイツにおいて中央レベルで党首会談がもたれるのは、手の打ちようがなくなった後のことだった。後の祭りだったわけである。その結果として他の政党も、国民運動も、いっきょに壊滅することになるのだ。中央の責任というのは、それだけ重たい。そのことを、ドイツ史は教訓として残していると思われる。

 翻って日本の問題だ。麻生さんの発言は、何としてでも改憲を成し遂げたいという執念があって生まれたものだと言える。ナチスの手口を参考に暴力的に襲ってこられたとき、他の政党や政党に属していない個人は、命をかけて自分をまもってくれるだろうか、それだけの関係を築いているのだろうか。麻生発言は、そのことを問いかけているのかもしれない。

 もちろん、現場ではいろいろな協力関係が存在する。だけど日常的に協力し合うという関係が存在しない中央レベルでは、ナチスの手口で各個撃破で来られた場合、特定の政党への攻撃を自党への攻撃とみなして、集団的に(いっしょに)反撃することができるのか(集団的自衛権みたいだけど)。護憲よりも日米安保の問題が大事だということで、護憲派の協力と連帯を後景に退けていないのか。他党が弱まったら、自党が護憲派において本流の地位を確固としたものにすると、喜んでいるようなことはないのか。

 麻生さんへの批判は大事だが、改憲勢力がもっともおそれるのは、護憲勢力が協力関係をつくることにある。思想信条を超えて、あるいは自衛隊への賛否を超えて、あるいは日米安保への態度を超えて、協力関係がつくられることにある。麻生発言を契機に、そこまですすむことができたら、この発言が何ものかを生みだすことになったと評価できるかもしれない。(完)