2013年7月31日

離島の防衛というのは、そう簡単なことではない。本土から離れているわけで(だから離島なのだが)、部隊を投入するのも後方支援するのも、本土と同じようにはいかない。

もちろん、それは相手にとっても同じである。だから、離島の争奪戦というのは、お互いが本気を出すと、死にものぐるいの戦いになる。第二次大戦の末期、太平洋上の諸島を次々とアメリカに奪われていった経過を思い出せば、双方に耐え難いほどの犠牲を生みだすものであることが理解できると思う。

だから、本格的に相手が尖閣を奪取するつもりで大軍を派遣してきたとき、真剣に防衛しようと思うと、日本側のダメージも深刻なものとなるわけだ。昨日の記事で、政府・自民党の考えていることは、いったんは尖閣が奪われることが前提になっていると書いたけれども、被害を最小限に食い止めようとすれば、そういう判断も合理的なのかもしれない。人が住んでいる島なら、いくら合理的でもそういう決断を下すのは難しいだろうけど、そうではないのだから。

問題はその先である。奪い返し方である。防衛省のなかでは、ふたつの考え方があるらしい。

ひとつは、自衛隊に海兵隊機能をもたせて、上陸作戦を敢行して奪取するというものである。もうひとつは、制空権・制海権の優位を生かして、相手国による後方支援を断ち切り、上陸部隊を孤立させていくというものである。

政府・自民党で採用されようとしているのは、そのひとつめであり、昨日も紹介したものだ。だけどこれは、本日の記事の冒頭で書いたように、まさに総力戦を攻守ところを変えてやるものであり、犠牲の大きさは計り知れない。

ふたつめは、奪取するのに時間がかかるだろうが、犠牲の少ない選択肢である。尖閣のような島を奪ったとしても、自給自足はできないわけで、どうしても本土からの支援なしに上陸部隊は生きていくことはできない(だから、そんな島を本格的に奪いに来るのかということが、まず前提的に疑われなければならないのだが、軍事っていろいろな可能性を検討しないとダメなので)。その支援を断ち切ることは、現在の航空戦力、海上戦力の比較とかからして、日本にとって可能である。相手側の戦力が飛躍的に向上したり、尖閣に近い台湾を基地として使えるようになれば、事態は変わっていく可能性はあるが、しばらくそういうことはないと思われる。

時間がかかるという弱点も、その期間を、国際的な宣伝に費やすことでプラスに変えることもできる。いくら言い分があっても、領土を戦争によって奪うなど、現代の世界では絶対に許されないわけであって、国連その他の場でふつうに訴えれば、国際世論が味方につくことは間違いない。この選択肢は、外交力と結んで事態を解決するという点でも、ベターなものだと感じる。

ということで、やはり、自衛隊に海兵隊機能をというのは、勇ましく聞こえるが、犠牲だけが大きくて、周辺国の懸念だけをかきたてるもので、防衛下手・外交下手の国のやることだと感じる。どうでしょうか。

2013年7月30日

政府・自民党のなかで、いろいろな議論が出てきていて、それをどう考えるかが求められている。いや、政府・自民党がどうあろうと、現実に中国が海と空の両方から軍事的に挑発しているわけだから、ちゃんとした回答が必要な問題ではある。

この問題では、軍事的に対抗するのではなく、外交で対処せよという考え方がある。たいへん大事な考え方だと思う。

ただ、その外交が、そう簡単ではなさそうだと、多くの人は思っている。外交交渉の場で尖閣をめぐる中国の主張には理がないことを解き明かしても、中国が納得するとは思えないし、いっそうかたくなになるだけだろう。一方、単純にこの海域を平和と共同の海にと言っても、通用しないことが多い。少し前、台湾との間で尖閣周辺を共同漁業水域にする話が出たが、沖縄の漁民が猛反対していたことを思い出す。当事者にとっては、平和より実益、という感覚になるのは自然かもしれない。私自身の回答は『これならわかる日本の領土紛争』とか『憲法九条の軍事戦略』のなかで書いたつもりなので、ここでは書かない。

ここで書きたいのは、その先のことである。いま、自民党が持ちだしているのは、そうやって外交で対処しようとしても、それを押し切って中国が尖閣を軍事占領しようとする事態なのである。こういう想定の場合、ふつうの人が思い浮かべるのは、尖閣諸島を防衛する海上保安庁などが中国軍隊から集中砲火されているというようなものだ。

そういうことが頭のなかにあるのに、「とにかく外交で」と言っても、「それは中国に言ってくれ」ということにしかならない。「尖閣のような無人島のために軍事力を使うべきでない。それぐらいなら放棄せよ」という方もいるが、それは国民的な規模では通じないだろう。

だが、まず問題にしたいのは、政府・自民党の議論にはズレがあることである。いわゆる「自衛隊にも海兵隊的な機能を」という議論である。少し前、海外で離島防衛訓練をやっていたが、それも同じである。

海兵隊的機能をと言った場合、想定されているのは、上陸作戦である。水陸両用のコンパクトな機能を使い、自力で上陸するのが、海兵隊の主要な役割である。

しかし、これだけを言っても分かると思うが、ここで議論されている前提は、すでに尖閣が奪われてしまった後のことである。奪われた尖閣を取り戻すために、敵の攻撃を跳ね返しながら上陸作戦を敢行することが不可欠なので、海兵隊的な機能が必要だと言っているわけだ。

ということで、この議論は、尖閣が奪われようとするのを防ぐためにどういう機能が必要かというものとは無縁である。政府・自民党の議論は、尖閣がいったん奪われるのは仕方がない、という考え方が前提にあるわけだ。

実際、中国の大軍が押し寄せてきたとして、海兵隊には、中国の戦闘機と渡り合えるような装備はない。制海権を奪い合う戦争も、海兵隊にはできない。もちろん、ないよりはあるほうが役に立つかもしれないが、尖閣防衛のことを考えると、その程度のことなのである。

だから、海兵隊的な機能がほしいのは、じつは尖閣防衛のためではないのではないか、他の場所に上陸作戦をするためではないのか、という議論が出てくる。当然のことであろう。(続)

2013年7月29日

前回の記事で、中国の平和市民団体が国際会議に出てくるなら、日本に抗議するだけでなく、自国の軍拡路線や尖閣をめぐる挑発に抗議をしてほしいと書いた。だけど、それは、現状ではかなり絶望的なことである。

だって、いま国際的な市民運動の会議に出てくる中国の代表って、市民代表というより、政府代表のようなものだからね。ふつうなら、非政府組織(Non-Govermental Organization=NGO)が国際会議に出てくるのだが、中国の場合、同じく非政府組織をなのっていても、ゴンゴ(GONGO=Govermental NGO=政府系非政府組織)だと蔑称される所以である。

社会主義なのだから、人民と政府の立場は一致していて、矛盾はないのだというのが、中国政府の立場なのだろう。だけど、中国市民の立場はそうではないだろうし(詳しく書かないが、レーニンだってそうではなかった)、ましてや中国の平和運動と関係をもつ日本の平和運動が、そういう中国政府と同じ立場に立ってはならないと思う。たとえ困難はあっても、自国の軍拡路線とか、尖閣問題での軍事挑発を批判する運動に着目し、交流を深めることをめざすべきだろう。

そういえば、人権問題なら、政府の人権侵害と闘う個人は中国に存在するわけだよね。だから、そういう人びとと連絡をつけるのは、中国政府による妨害はあるけれども、不可能なことではない。

だけど、平和問題って、どうなんだろう。自国の軍拡路線に反対する平和運動とか個人って、中国には存在するのだろうか。聞いたことがないなあ。

きっと、人権問題って、まさに自分の人権に直接にかかわることだから、命をかけてでも政府に対峙しなければならないという要素があるのだろう。だけど、平和問題になると、軍事的にも弱小な時期に、まず欧州の列強に主権を侵害され、さらに日本に侵略されたということで、自国の軍備拡張を問題にしないという世論が強固なのかもしれないね。

だけど、だからこそ、中国のなかにそういう世論や運動が生まれることを期待したい。日本と中国の双方で、日本と中国の双方の軍拡を批判する平和市民運動が広がり、その双方の連帯が生まれたとき、両国の軍事的な緊張を打開する道が開けてくるのかもしれない。前途遼遠なのだろうか、それとも近くにまで来ているのだろうか。

 

2013年7月26日

6年ほど前だったと思うが、「九条世界会議」というのが千葉の幕張で開催された。ノーベル平和賞受賞者などをお呼びして、九条が世界から評価されていることを明らかにする取り組みであった。ちょうど第1次安倍政権ができて、危機感が高まったときだったので、とてもタイムリーな取り組みだったと思う。

私も当時、九条が世界的にどういう意味をもつかに関心があった。いわゆる「一国平和主義」批判が幅を利かせていた頃なので、九条が日本だけのものでなく、国際的に普遍的なものだということを示したかったのだ。

だから、まだ出版社につとめていなかった8年前、「九条が世界を変える」という本を出させてもらった。その直後にこの出版社に再就職して、九条世界会議にあわせて、「5大陸20人が語り尽くす憲法9条」という本をつくったのである。

この10月に、「九条世界会議」が大阪で開かれる。いうまでもなく、6年前の会議の継続である。出版社の一員として、その会議にはブースを出して、本を売りにいくつもりである。

しかし、6年前とは、憲法九条をめぐる情勢は様変わりしている。衆参で改憲勢力がこれほどの議席を獲得し、国民投票が現実のものとなるということは、当時から考えないではなかったが、いよいよかという感じだ。そういう、まさに日本国内の問題が焦点になっている局面で、大事なことの第一番目に九条の世界的な評価を高めることが来るかというと、そういうふうには思えないが、大事な取り組みであることは変わらない。

でも、この会議が大事なことの第一番目に来る場合が、ひとつだけあると思う。それは、尖閣問題をふくめ、日中の軍事的な対立の解決策を打開する道を示せたときだろう。

世界会議なのだから、もしかしたら中国からも代表がくるかもしれない。その場合、中国代表は、当然のこととして、日本が九条を守ってほしいという要望を出すだろうと思う。日本軍国主義に侵略された過去のある国として、当然のことだ。

しかし、もしそれにとどまるなら、否定的な役割を果たすことになるかもしれない。だって、過去のことはつねに自省が必要なことであるが、いま焦点になっているのは、現在の日中関係だからである。

中国がこれだけの軍拡を進めて、尖閣をめぐって軍事的な挑発をつよめているときなのだから、中国の平和市民団体に求められるのは、日本の右傾化の動きを批判するのと同様、自国の動きについても抗議し、異議申し立てをすることだろう。そういうときに、ただただ日本の動きだけを批判するというものになるなら、日本の世論から乖離したものとならざるをえないし、問題の平和的、外交的な解決につながるものにもならない。(続)

2013年7月25日

というタイトルで、先日(23日)、読売新聞の報道があった。とても心温まる記事だった。

 「福島県訪問中の天皇、皇后両陛下は23日、前日の大雨により県内で避難者が出たことなどの被害に配慮して日程を取りやめ、この日訪問予定だった同県桑折町の桃農家の人たちと福島市内のホテルで懇談、収穫された桃を食べられた。
 同町の農家では、原発事故による風評被害に苦しみ、冬の間、桃の木1本1本を除染するなど、出荷に備えてきた。両陛下は、「今年はまたおいしいですね」「今後もおいしい桃を作るためがんばってください」などと話されたという。」

福島の農家の方は本当に努力している。この記事では1本ずつ除染するという話だが、それ以外にも、放射線が土のどの部分にたまりやすいので、どういうふうに根を張るものだったらつくれるのだとかという工夫もあるそうだ。しかも、つくった農作物は検査され、安全なものが出荷される。

ところが、そうやって農家の方々が努力して出荷しているのに、農業をめぐっては、いろいろな種類の報道があふれている。危険なものを出荷しているかのように言われたりする。ちょっと私には活字にできないようなことを、平気で発言する参議院選挙の候補者なんかもいた。農家の子どもたちは、自分の親が人を病気にするような危険なものを出荷しているみたいに言われて、どんな気持ちで成長していくのだろうか。

そういうなかでの今回の記事だった。「今年はまたおいしいですね」ということは、昨年も味わったということに違いない。そうやって激励された農家の人びとは、どんなに励まされたことだろう。自分は人からおいしいと言われるものをつくっているという誇りは、農業をやっていく上で不可欠だろう。子どもにも、自分の親はそういうものをつくっているのだということを、是非、伝えていくようにしたい。

戦後の象徴天皇制が国民に支持され、定着してきたことの秘訣が、ここからは見えてくると思う。苦しみのなかで努力している国民に寄り添っているということが分かるように、いろいろな行動が決まり、報道がされていくのだろう。

これが象徴ではなく元首ということになるとどうなるのだろうか。自民党の改憲案では、引き続き「国政に関する権能を有しない」とされ、国事行為も限定されているようだが、現憲法が「国事行為のみ」を行うとされているのを、改憲案は「のみ」をとっているので、こんご、拡大する余地が残っているように思える。

佐藤優さんなんかが心配しているのは、集団的自衛権とかを行使可能になってきて、戦争することが増えてきた場合、宣戦布告はだれの名前でするのかということだ。戦後ずっと心配する必要のなかったことが、九条改訂で現実のものとなっていく。佐藤さんは、天皇の名前で宣戦布告することになれば、天皇制そのものが崩壊することを心配しているわけである。

そういう角度での護憲論なんてのも、必要になってくるかもしれない。ここしばらくの間、憲法問題でどんな本を出すべきか、真剣に検討しなければならない。