2014年1月15日

 昨日付で記事を書き、それをフェイスブックにもアップしたのだが、その場で少し議論になった。その議論をふまえ、私もコメントし、「宇都宮さん、『当選すれば細川さんを副知事に』なんて発言したらどうでしょうかね」と書いた。そのことについて、もう少しのべておく。

 選挙って、複数の候補者のなかから自分を選んでほしいと訴える場だから、他の候補者より自分が優れているのだと主張することになる。それ自体は当然のことだ。

 だけど、それが行きすぎる場合が、ままある。争点になっている課題について、「自分だけが優れていて、あとの候補、政党は全部本質的にダメ」とする傾向である。他の候補者のなかにだって、いろいろなバリエーションがあるはずなのに、本質的にダメということになると、「敵」だという位置づけになる。

 とりわけこの傾向が、似たような政策課題をかかげる候補や政党相手に出てくると、大きな弊害になる。似ているから、自分の支持者が食われると感じるわけだが、そこを回避するために、「似ていない」ことを強調するあまり、批判が打撃的な方向に向かうのだ。歴史的にみると、いわゆる社民主要打撃論と言われるものも、そのようなものだったと思う。

 細川さんの原発問題の主張について言うと、批判する場合も、脱原発を政治の世界の主流にするために保守との協力をどうするのかという角度が大事だと考える。いつ頃言いだしたのかとか、総理時代はどうだったのかとか、問い詰めるのはいいけれど、気持ちのいい批判であってほしい。選挙が終わった後は、脱原発のためにお互い協力し合おうねと、その健闘をねぎらえるようなものであってほしい。

 そうでないと、社民主要打撃論がそうであったように、結局、矛先は打撃を与える側に向いてくる。批判すればするほど少数になっていくのだ。「いつ頃言いだしたのか」なんてことを基準にしたら、3.11後に脱原発を自覚した国民多数を敵に回すことになるしね。

 それと、補足だけど、細川さんの総理時代の功績で思い出したことを2つ。小選挙区制をはじめ悪いこともたくさんあるが、それだけが強調されるのでは公平さに欠けると思うので、あえて書いておく。

 1つは、94年2月、日米経済協議5分野での交渉を、クリントン大統領との首脳会談に持ち込み、交渉を決裂させたこと。「NOという日本」を実践したわけだ。これはアメリカに警戒感を抱かせた。

 2つは、その直後に提出された防衛問題懇談会の報告である。有名な話だが、冷戦後の防衛問題の枠組みとして、日米同盟よりも多国間安保を優先して記述したことが話題になった。それでアメリカが巻き返しをして、橋本龍太郎時代の「安保再定義」にいたったことは、多くの方が知っているとおりである。

 ということで、言葉は悪いけれど、細川さんは「よりまし」である。宇都宮都知事のもとで、是非、原発担当の副知事をしてほしい。