2014年2月12日

 いまの反原発運動の分裂をめぐる議論を見ていると、「禁」と「協」の論争を思い出す。もちろん、同列におけない要素も多いのだけど、論争のあり方という点では教訓が多い。

 1960年前半のことだが、「いかなる国」問題や部分核停問題があり、いっしょに原水協でやっていたのに、総評や社会党が飛び出していって、原水禁をつくった。その原因と責任をめぐっては、お互いに言い分があった。

 「禁」の側からすれば、まず、いかなる国の核実験にも反対するのが当然だという、しごくまっとうな意見があった。しかも、原水禁世界大会では、数年間核実験がおこなわれていないという喜ぶべき現実をふまえ、次に核実験をする国は全人類の敵だという決議を満場一致で採択していた。それには日本共産党もソ連も賛成していたのに、ソ連が核実験をおこなったら、一転してソ連を批判すべきでないという態度に変わったのはおかしいだろうというのが、「禁」の側の論理であった。

 日本共産党は、社会主義国と資本主義国の核実験には根本的に違いがあるので、「いかなる国」の核実験にも反対だというのは誤りだという態度をとった。同時に、そういう態度をとってはいるが、それを原水禁運動に一致点として求めることはしておらず、原水禁運動は核兵器全面禁止という一致点で進めるべきものなのであるという態度だった。そして、意見の異なる「いかなる国」問題での支持を原水禁運動に押しつけるのは誤りだと主張した。

 その論争と分裂が原水禁運動にもたらした弊害はたとえようもないほど深く、重い。その後、いくつか統一への機運は起きたが、回復できなかった歴史がそのことを物語っている。

 73年に、こんどは社会主義国である中国が核実験をおこなった。当初、共産党は「いかなる」問題のときと同じ態度をとったが、すぐに態度を変え、社会主義国の核実験にも反対するという立場にたった。分裂の引き金となった問題での意見の違いが解消されたわけだから、統一は可能になるはずだった。しかし、「禁」の側は、共産党が過去に間違った態度をとったことへの反省と総括が必要だと主張し、共産党は、引き続き社会主義と資本主義を同列視していないと強調するとともに、分裂していったのは「禁」の側だと応じ、統一は問題にもならなかった。10年の論争の応酬は、すでに信頼関係を失わせていたわけだ。

 国民世論の高まりのなかで、77年、「禁」と「協」は統一を合意し、統一世界大会が開催されるようになる。この過程のなかで84年、日本共産党とソ連共産党が核問題に限った共同声明を発表した。これは、資本主義と社会主義の核兵器を区別せず、核兵器全面禁止という課題で全力をあげるという内容のもので、ソ連がそれに賛成したことも画期的だったし、日本共産党にとってみれば「いかなる」問題からの最終的な決別という性格のものであったといえる。だから、原水禁運動の統一にとっても意味があったはずなのだが、原水禁世界大会の統一は、85年で終わってしまう。「いかなる」問題とは全く異なる原因での終了であった。

 長い分裂によって、当初の原因とは異なる問題でも対立するような関係になってしまっていたわけである。そして、89年にソ連が崩壊し、日本共産党は、ソ連は社会主義でもなかったと表明する。しかし、この頃になると、統一を問題にする世論も消え失せていた。

 反原発運動が一刻も早く統一を回復することを願うばかりだ。お互いに言い分はあるのだろうけれど、お互いが自分の正しい立場に固執していては、原水禁運動の過去と同じである。こんなことを書くと、「われわれの正しい立場を、違う問題をもってきて批判するのは止めてくれ」という正しい意見が殺到するのだろうけれどね。