2014年3月24日

 と言っても、なんのことか分からないだろうね。本日付「読売新聞」の1面トップ記事のことである。

 安保法制懇が来月、集団的自衛権の解釈改憲についての報告書を出そうとしている。これまで、どういう場合に日本が集団的自衛権を行使するのか、それにどう制限をかけるのか、いろいろ議論されてきた。

 そのなかで出てきた議論のひとつが、いわゆる四類型というものだ。たとえば、米本土に向かうミサイルを撃ち落とさないでいいのか、というようなもの。

 これについては、以前書いたように、石破さんが「実際にはできない」ことを認めてしまった。ということで最近は、「グアムに向かうミサイル」という言い方になっている。だけど、グアムに日本のパトリオットを配備するんですか? パトリオットがぜんぶグアムにいって、日本にミサイルが落ちてきたら、どうするんですか。非現実的なところは、何も変わらない。

 もうひとつが、日本近海で米艦船が攻撃を受けたときというものがあった。これについても、現実味を問題にする議論が多い。

 だけど私は、昨年書いた『集団的自衛権の深層』(平凡社新書)のなかで、周辺事態で米中が交戦するという事態ならば、十分にあり得ることを指摘した。本日の読売の報道は、それを裏付けたものだといえる。

 周辺事態法というのは、たとえば台湾海峡をめぐる緊張のなかで米中が交戦したとき、日本が米軍を後方支援するという枠組みである。日本が武力攻撃を受けたわけでもないのに、日本が事実上戦争にふみだすわけだから、大きな批判があった。

 しかし、現実味ということでは、それなりのものがある。アメリカは、それを現実的なものだと考えたから、日本に対して千項目をこえる要求事項を提出し、日本側は、何ができるかを真剣に検討し、この法律の策定にいたったわけである。

 けれども、それは、安倍さんの好きな言葉で表現すると、「狭義」の現実性である。「広義」の現実性はない。

 どういうことかといえば、こういうことだ。そういう事態は起きる可能性はあるだろう。だけど、そういう事態に際して、日本が後方支援にとどまらず、米軍と肩を並べて中国に対する武力攻撃に踏み切るなど、誰も(安倍さん以外)望んでいないということだ。

 いまの枠組みは、賛成する人にとっても、最良のものだ。武力攻撃しないということで憲法九条違反という批判を回避できる。

 それだけではない。アメリカが戦争に負けるリスクを最小化するのである。

 もし日本が最前線に出て、中国軍を攻撃することを想定すればいい。そんなことになれば、日本の侵略をうらみに思っている中国の人々は、絶対に屈服しない。勝利するまであきらめない。

 アメリカは、そういうことが想定されるから、日本を後方支援にとどめようとしたわけだ。それが周辺事態法なのだ。

 さあ、本当に、そういうことをするために、解釈改憲をするのか。安倍さんのお手並み拝見だね。

2014年3月20日

 この間、こういう種類の本をつくってきた。『もしマルクスがドラッカーを読んだら、資本主義をどうマネジメントするだろう』とか、『右脳戦略論』とか。

 こういう方向を、もっと本格的に進めたい。いま、池井戸潤の『ルーズヴェルト・ゲーム』を読み終えて、ほんとにそう思う。

 これまで、ずいぶんと長い間、なんとなく企業というものを積極的に肯定しない世界に住んできた。株なんて、買ったこともなかったし。

 だけど、それでは通用しないとも感じてきた。株価が下がっているのを喜ぶ左翼をみると、国民感情からかけ離れているなとも思ってきた。

 それに、もともとマルクスは、株式会社というものを、社会主義に向かう要素と位置づけてきたわけだ。所有と経営が分離することを積極的に捉える立場である。

 そして、数年前、生まれて初めて、株式会社というものに入社した。いまでは、その代表取締役である(形だけだけど)。

 私が住んできたかつての世界からすると、株式会社というのは、利潤第一で、労働者とか消費者の利益を考えない組織である。しかし、実際に体験する企業経営というのは、そういうステレオタイプのものとは異なる。

 だって、代表委取締役として見る書類では、そもそも利潤なんてほとんどない。そして、もし利潤をあげられるなら、もちろん銀行からの借金も返したいけれど、社員の薄給をなんとかしたいと思う。

 池井戸の『空飛ぶタイヤ』とか『下町ロケット』などは、中小企業にもすばらしい面があることを、リアルに描いたものである。そして、『ルーズヴェルト・ゲーム』は、それを中堅企業にまで広げている。「大企業=悪」、「中小企業=善」というような単純な見方は、やはり通用しないわけである。

 もちろん、資本と労働者の利害というのは、対立するわけである。しかし同時に、労働者は、会社での仕事にやり甲斐を感じているはずでもある。仕事に意味があると感じるから、そこに働くわけだと思う。

 そういうものを、もっと肯定的に捉える立場でないと、労働者の共感を得ることも難しいのではないか。自分が搾取されていることへの怒りという問題と、しかしそれにもかかわらず自分の労働が社会を支えている誇りという問題を、統一的に捉える視点が必要だと感じる。

 さて、そんな本が、はたしてできるのか。悩まなければならない。

2014年3月19日

 本日から東京。共産党の複数の元幹部が書かれる本の相談が中心的な目的だったが、情勢の急変があって、もうひとつ加えた。

 何かといえば、拉致問題である。横田さんご夫妻がお孫さんに会うという新たな局面をふまえ、この問題の解決方向を示す本が必要だ。

 この2〜3年の間に進めようとしたのは、超党派の北朝鮮訪問団を送り、その経過を本にすることだった。批判を恐れて誰も拉致問題に手をつけようとしないわけだから、みんなでわたれば怖くないという格言通り、超党派でやらなければならないと考え、相談してきた。だけどやはり、泥をかぶる覚悟のある人はいなかったのである。

 だけど、いまは、情勢が大きく変わった。横田さんが孫に会うことをよろこぶ世論が熟成しているわけだから、この方向をさらに前へと進めることも可能だろう。関係者が北朝鮮に訪問することに意味がある事態になったのではなかろうか。

 政府の拉致問題対策本部のなかにも、それを容認する空気があると聞いた。これまでだったら、民間人が拉致問題で外交をやろうとすると、障害あつかいする声が大きかったわけだが、確実に変化しているようだ。日本政府公認なら、危険もないだろうし。

 被害者や家族の声、心情を直接に北朝鮮に伝えるのは、それだけでも意味がある。何といっても当事者の生の気持ちなのだから。

 とりわけ、北朝鮮側が被害者が死亡したとして提示してきた「証拠」を、なぜ家族が受け容れられないかについては、どうしても伝える必要がある。そこが伝わらない限り、両国政府間で焦点となっている「再調査」がなぜ必要なのか、北朝鮮側も理解できないだろうと思う。

 できれば私も行きたい。だけど、一人しか随行できないとなれば、ハングルができる人でないとダメだろうなあ。こちらの言いたいことを、北朝鮮側の通訳が正確に翻訳できるとは思わないし。

 うってつけの人が、身近にいる。拉致問題に精通している人なんだが、数年前なら政治のからみがあって、そんな仕事を頼めなかった。転職して自由人になっているので、怖いものなしでしょ。

 ということで、拉致問題では、左右の垣根を超えた闘いを進めるのだが、それを左翼のイニシアチブでやることが見えるような局面をつくりたい。かねてからの念願なんだけどね、それが。

2014年3月18日

 34面(東京版。地方によって異なる)なんですが、その右半分を使って、解釈改憲と集団的自衛権に関する記事が掲載されています。「リアリティない議論、今も。解釈改憲の源流、明治憲法にたどる」というタイトルです。
 
 「司馬遼太郎「統帥権独立論は暴走」」という目次と記事の冒頭部分が、この記事のねらいを言い当てています。「天皇は陸海軍を統帥す」という明治憲法の条項を、軍部は勝手に「統帥権の独立」と解釈改憲し、戦争の道を突き進みました。そして、司馬がこの時代のことを書きたかったが書けなかったのは、なぜ軍部が「統帥権独立論」という「魔法の杖をおもちゃにし、国を破滅させた」のか、理解不能だったからだというのです。軍部のエリートに取材しても、その話にリアリティがなく、「ツルツルした世界認識だったから」というものでした。

 それに続いて、歴史家の秦郁彦さんが登場し、統帥権問題の解釈改憲で軍部が暴走した経緯を語っています。そして、その後、5段の記事中2段を使って、なんと私のことが以下のように出ています。

 ジャーナリストの松竹伸幸さんは、非武装の国連停戦監視団に自衛隊を積極活用するよう提言するなど、現実を見すえた解釈改憲ならいとわない、攻めの護憲の立場だ。自身が事務局をつとめ、「自衛隊を活かす:21世紀の憲法と自衛隊を考える会」を準備している。現行憲法を変えずにどのような軍事行動が可能かを研究・提言する。「旧来型の非武装中立だけにこだわる護憲は、もはや十分な力を持ち得ないという、私自身の思想的変遷がある」と話す。

 松竹さんはその一方で、『集団的自衛権の深層』(平凡社新書)を出版、安倍首相らが進める解釈改憲の「リアリティーのなさ」を痛烈に批判している。

 「一例をあげれば、米本土へ向かうミサイルを迎撃するため、集団的自衛権が必要だと自民党は言ってきた。しかし、ミサイル迎撃などリアルの世界では現状不可能だということは、推進論者が近著であっさり認めている」

 米艦船が攻撃されたら日本は看過していいのか。中国軍が尖閣諸島に上陸したら座視するのか……。集団的自衛権行使の論拠とされる「リアルな想定」を、松竹さんは同書でひとつずつ論破していく。「推進論者こそ軍事の現実を見すえず、空理空論をもてあそんでいる」(松竹さん)。

 研究会は6月に発足する予定で、防衛官僚出身の柳沢協二・元内閣官房副長官補らを呼びかけ人とする。集団的自衛権論議の「リアリティーのなさ」「ツルツルした世界認識」に危機感を持つ保守派論客や自衛官も、参加する予定という。

2014年3月17日

 とってもうれしいニュースだった。日朝赤十字会談の裏では、こういうことが進行していたんだね。日本政府のなかにも、ちゃんとやってくれる人がいて、うれしい。

 横田さんには3回ほどお手紙を出して、『孫に会いに行きたい』というタイトルの本に書いてみないかとお願いしたことがある。2度目まではご返事そのものがなく、3度目に、はじめて滋さんの直筆のお手紙をいただいた。それは、会いたいと願ってはいるが、そのことが拉致問題の幕引きに利用されるかもしれないという懸念が運動の内部にある事情をつづったものだった。断りの手紙だったのだが、返事をいただいたということで、とっても誠意を感じたのである。

 私としては、そういう懸念があるからこそ、本を出し、お孫さんに会うのは当然だという世論をつくるべきだと思っていた。だって、肉親同士が面会するという当然のことが実現しない運動なんて、人道的に許されないことだ。人道問題をかかげた運動がそんなことをしていたら、運動として支持が得られなくなるだろう。

 結果として、本にはならなかった。けれども、横田さんをお孫さんに会わせてあげたいというのが私の目的だったので、その目的が達成されて満足である。

 拉致問題は、出発当初は左翼の独壇場だったのに、いろいろな経過があって手を引くという局面が生まれた。その間に、なんだか右翼の独壇場みたいになる。本来なら左右を問わず国民的にやるべき問題だったのに、そうはなってこなかった。

 その局面で、なんとか事態を打開したいと願い、蓮池透さんにお会いした。それでできたのが、『拉致 左右の垣根を超えた闘いへ』であった。もう5年前のことだ。

 何しろ、蓮池さんは、拉致被害者を助けるため、憲法九条を変えて自衛隊を北朝鮮に派遣しとと主張しておられた方だから、お会いするのに勇気がいった。蓮池さんご自身も、うちのような出版社から本を出すことに勇気がいったのだと思うのだが、ご一緒に仕事をできて、本当に良かったと思う。

 幸い好評で、その直後に、『拉致2 左右の垣根を超える対話集』(池田香代子、鈴木邦男、森達也さんらとの対談)を出した。昨年には、「13歳からの…」シリーズとして、『13歳からの拉致問題』を出した。

 拉致問題は、日本のありようを問うたきわめて大きな問題である。この問題の解決の仕方には、知恵と工夫と努力が求められると思う。これからも、拉致問題でどんな本を出すか、模索がつづく。