2014年4月4日

 集団的自衛権の議論が政府与党内で大詰めを迎えてきて、いろいろ新しい議論が生まれている。この機会を逃すと二度とチャンスは訪れないと考えて、必死なんだろうなあ。

 だけど、私から見ると、不誠実さばかりが拡大するように思える。絶対に実現したいということで、スジが通らなくなってきているのだ。

 たとえば、どういう場合に、どんな集団的自衛権の行使が求められるのかという問題。最近、ペルシャ湾での機雷の掃海とか、朝鮮半島有事での米軍との共同行動などが取りざたされるようになった。

 そういう場合に集団的自衛権が必要かどうかは別として、それ以前に、議論の仕方がおかしいんだよね。ついこの間までは、米本土に向かうミサイルがどうかとか、アメリカの艦船が攻撃されたときにどうするかとか、そういうケースを彼らは提示していたのに、その評判が悪いと分かると、ケースそのものの想定を変えてきたわけだ。

 もともと、この問題は、アメリカなどがどこかから攻撃されていて、それをどう助けるかということであって、攻撃されている国にしたら、とっても大事な問題なんだよね。そういう大事な問題なのに、これがだめならあれ、あれがだめならそれみたいに、とっても無定見。防衛問題って、いのちがかかる問題なのに、そういう問題を議論しているという真摯さが感じられない。いのちを守るという角度ではなく、どういうケースを提示したら国民を「なるほど」と思わせ、解釈改憲できるかという角度で考えている。

 それと、最近、高村さんが言っている砂川判決のこと。この判決で日本の防衛に必要最小限度の範囲では自衛権が発動できると言っているから、必要最小限度なら集団的自衛権もオーケーだというものだ。

 これは、本当は難しい問題。国際法上の概念で正確にいえば、米軍が戦争するときに基地を提供したり、後方支援するのは集団的自衛権の発動である。だから、誤解をおそれずにいうと、すでに日本は必要最小限度の集団的自衛権は行使しているわけだ。それを内閣法制局が集団的自衛権は戦闘行為に限るという狭くゆがんだ解釈をして、定着をしてきたのである。

 しかし、そういう理論的な吟味はしないまま、60年以上前から集団的自衛権は合憲だったなんて議論をもちだすなんて、あまりに不誠実でしょ。ずっと違憲だとしてきた政府の責任はどうするのか。

 しかも、やはり国民の理解を得たいがために、日本の防衛に必要な集団的自衛権という概念を作りだしている。だけど、日本の防衛に必要ならば、集団的自衛権ではなく個別的自衛権ではないか。

 こうして、国民の理解を得ようとすればするほど、論理が破綻してくるのである。本当にジレンマだよね。