2014年4月30日

 いま、集団的自衛権の本を書いていて、5月末発行。7月末には『13歳からの領土問題』が出来上がる。

 それに続いて、今年中に書き上げたい本があるのだが、それがこの記事のタイトルのような感じの本だ。サブタイトルをつけるとすると、「原理主義は左も右もダメ」という感じだろうか。 

 「超」で何をあらわしたいのか。私がこれを使う場合は、それ以下に続く言葉を乗り越えたいという気持ちと、それへのある種の共感と、両方がある。

 「超左翼」も同じだ。左翼への共感とともに、このままの左翼ではダメだという気持ちがある。

 ではなぜ、『超・嫌韓流』なのか。『嫌韓流』を乗り越えるというなら分かるが、まさか『嫌韓流』に共感する部分もあるというのか。

 『嫌韓流』は、本屋に並んだときに買った。「どう反論したらいいのか? 書いてあることが事実だとしたら、弁解できない」と、いろんな人から問い合わせがあったからだ。いま、本屋に入ると、第二の『嫌韓』ブームの様相を呈しているよね。何とかしなければという気持ちが強い。

 私はもちろん、『嫌韓流』に代表されるこの種の本の内容には共感しない。だけれども、これに惹きつけられる若者の気持ちは理解できるような気がする。

 多くの国民は、日本がやった戦争とか植民地支配とか、あるいは慰安婦問題でも、程度はさまざまであっても、申し訳ないなという気持ちを持っていたと思う。世論調査を見ても、戦後直後はあの戦争への肯定的イメージが優っていたが、だんだん否定的イメージが増えてきて、優勢になっていった。

 それを背景にして、過去を反省しない日本政府への批判が次第に強まっていく。「侵略的事実」や「侵略行為」があったことを自民党の首相が認め、自民党から変わった細川さんが「侵略戦争」だと認め、それらが自社さ政権の「村山談話」になっていく。慰安婦問題では、その直前に「河野談話」が発表される。

 「村山談話」が自社さ政権で出されたことに象徴されるのだが、この談話の水準は、国民の平均的な気持ちをあらわしていたと思う。「河野談話」とその水準でつくられたアジア女性基金も同じだ。

 ところが、左翼のなかでも理想主義的な立場の人は、アジア女性基金を否定した。日本の総理大臣が慰安婦に手紙を出し、「おわびの気持ち」を伝え、つぐない金を渡したのだが、それをまやかしだと批判した。

 韓国のなかでも、当初、政府はこれを受け容れようとした。しかし、左翼市民運動の反発が広がるなかで、政府も否定する側に回る。

 一方、日本の側では、原理主義的な右翼が、これらの談話を否定する。それに政治家がのっかかるものだから、日本や韓国の市民運動は、そしてそれをバックにした韓国政府は、「結局、日本政府は誤りを認めていない。謝罪も補償もしていない」と反発を強める。

 だけど、国民の多くは、これらの談話で日本が謝罪したことを知っている。慰安婦につぐないのためのお金を渡したことも知っている。それなのに「謝罪も補償もしていない」と批判されるものだから、「いったい何回謝ったらいいのか。いつまで謝罪を続けるのか」という気持ちが強まってくるのだ。

 だから、『嫌韓流』を支える読者の多くは、植民地支配や慰安婦問題で、もともとは韓国に謝罪すべきだと考えていた層だと思う。だから、これだけの広がりがあるのだ。

 そういう人々、若者に届く言葉で本を書きたい。可能だろうか。

 植民地支配の問題でいえば、先輩格である欧米諸国はどこも謝罪していない。村山談話で日本が謝罪したことは、原理主義的な立場からみれば不十分だろうが、国際的な政治の水準からみれば最高なのだ。

 侵略戦争の問題も、ことは簡単ではない。あれだけの規模でベトナムを侵略したアメリカは、一度も謝罪していない。ベトナムも謝罪を求めていない。

 学問や市民運動の原理というものと、政治や外交の現実というものと、どこかで折り合わないとダメだと思うのだ。原理をそのまま政治に求めてはいけない。もちろん、奴隷制がいまでは許されないように、何世紀かあとには原理が受け容れられることにはなるわけだけれど。

 そういう本、どこか興味のある出版社、ありませんか。あったら声をかけてくださいね。