2014年4月14日

 安倍さんが企んでいる集団的自衛権の解釈改憲だが、内閣法制局が防波堤のような役割を担ってきたと言われている。それは大事なことで、私も評価する。

 だけど、じゃあ内閣法制局の論理を、護憲勢力がそのまま受け容れられるかというと、そう簡単ではない。いくつも事例をあげることができるが、とりあえず一つだけ。

 集団的自衛権についての内閣法制局の論理の骨格は、集団的自衛権というのは国際法上は日本も有しているが、憲法九条によって行使することができないということだ。これが、「行使できない権利なんてあり得ない」などと改憲勢力から批判をあびてきたわけだ。

 ただ、これは国会でも昔はさんざん議論されてきたことだが、内閣法制局は、集団的自衛権は国際法上は日本も有しているといいながら、憲法上の権利として保有しているかどうかは言を左右にしてきた。憲法上は行使できないといいながら、憲法上の権利として保有しているが行使できないのか、憲法上の権利ではないから行使できないのかは、明確にしてこなかったのである。

 たとえば、なぜ憲法九条があっても個別的自衛の権利は有しているのに、集団的自衛の権利は有していると言えないのかという質問に対して、法制局長官は以下のように応えている。

 「個別的自衛権は持っているけれども、しかし、実際にそれを行使するに当たっては、非常に幅が狭い」「ところが、集団的自衛権につきましては、全然行使できないわけでございますから、ゼロでございます。ですから、持っているといっても、それは結局国際法上独立の主権国家であるという意味しかないわけでございます。したがって、個別的自衛権と集団的自衛権の比較において、集団的自衛権は一切行使できないという意味においては、持っていようが持っていまいが同じだ」(1981年6月3日、角田法制局長官)

 いちおうは国連憲章で「固有の権利」だとされている集団的自衛権について、「持っていようが持っていまいが同じだ」という程度の認識なのである。それを根拠にして、憲法上も権利として有していないという立場はとってこなかった。

 そこに、解釈改憲につながる大きな弱点があった。私は13年前に書いた『「集団的自衛権」批判』という本のなかで、以下のように論じたことがある。

 「政府が憲法上の保有、非保有をのべられない理由は、……近い将来にふたたび保有を宣言するうえでの制約を、あらかじめつくっておきたくないからである。集団的自衛権行使論者にとって、このような政府のあいまいな立場は、格好の標的である。憲法が集団的自衛権の保有を禁止しているわけではないのだから、憲法解釈を変えるだけでいいのだ、という論拠をあたえるのである」

 この懸念が現実のものとなりそうだ。報道によると、内閣法制局も、解釈を変える片棒を担ぎそうだからね。長官が小松さんになったことが大きいけれども、過去の法制局見解に穴があるから、それが可能になるのである。

 だから、この問題で闘うに当たっては、過去の内閣法制局の論理に依拠していてはダメなのだ。私が、集団的自衛権行使の実例、実態ということにこだわるのは、そこにひとつの理由がある。