2015年9月15日

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 さて、安倍さんたちは、日本の侵略と植民地支配が誤りだったと認める歴史観を「自虐史観」と名づけ、日本の栄光を讃える「栄光史観」とでも言うべき歴史観を広めてきました。これはもともと広がりやすい性質のものです。

 なぜかといえば、「日本はひどい国だった」という見方と、「日本はいい国だった」という見方が対立すれば、ふつうは「いい国だった」と思いたいという心情が人にはあるからです。しかも、「いい国だった」というのは間違いではなく、植民地にされなかったということも、経済大国になったということも、誇るべきことです。だから、「自虐史観」と「栄光史観」が争えば、「栄光史観」が勝つに決まっているのです。

 たとえば東京裁判の問題。一方の「栄光史観」の側は、これを勝者の裁きと批判し、欧米の侵略は裁かれなかったのに、日本だけが裁かれたのはおかしいと断罪します。他方、「自虐史観」の側は、昭和天皇が訴追の対象にもならなかったことや、A級戦犯容疑者だった岸信介が裁かれなかったことなどを取り上げ、日本はもっと裁かれるべきだったと指摘するわけです。

 対立構図がこのようになってしまうと、天皇を裁けという人はほとんど存在しないわけですから、自虐史観の分が悪くなるのは当たり前。しかも、「栄光史観」が指摘することのなかにも大事な問題があって、人の心を捉えます。

 たとえば、日本の朝鮮半島支配の第一歩として記憶される江華島条約ですが、これを砲艦外交だとしてアメリカが抗議してきたのに対し、日本は「ペリーが日本にやったのと同じことで平和目的ですよ」と反論したそうです。その後の日本の侵略は、同様の感覚でやられたのでしょう。しかし、欧米は裁かれなかった。

 栄光史観が心を捉えるのは、そこに何らかの真実があるからです。栄光に対して自虐を対峙しても、栄光史観にそまった人の心は変わりません。

 東京裁判についても、だから私は、それが「勝者の裁き」であることは、率直に認めなければならないと考えます。そこをちゅうちょしていると、栄光史観の跳梁を許すことになる。

 東京裁判が勝者の裁きであるという前提の上で、そのことのもつ積極的な意味がどこにあるのかを論じるのでないと、栄光史観に影響を受けている圧倒的な人を説得することはできません。「栄光」VS「自虐」という、負けがはっきりしている対立構造を崩すこともできません。(続)