2015年9月16日

 東京裁判は、やはり勝者の裁きだったと思います。それ以前も、侵略して植民地を獲得した欧米列強があり、それ以降も、アメリカやソ連などが侵略をくり返しましたが、結局、裁かれたのは日本だけ(とドイツ)ですから、そこは言い逃れできません。

 でも、もし日本が裁かれなかったら、いったいいまの世界はどうなったでしょうか。改めて言うまでもなく、1998年に国際刑事裁判所がつくられ、2010年には侵略の罪が最終的に定義されて、裁かれる体制が整いました。これが実効的なものになるには、30カ国の批准が必要ですし、たとえそうなっても批准しない国には適用されないなどの問題が残るにしても、体制がつくられたことは事実です。

 戦後65年もかけて、なぜそんなものがつくられたかというと、東京裁判が勝者の裁きだったことが自覚されていたからです。侵略の罪が犯されたとして、それを裁くのに常設の裁判所ができていないと、東京裁判の間違いをくり返すことになると自覚されていたから、いろいろな困難を乗り越えて努力が積み重ねられたのです。

 逆に、あの時、日本を裁かないとなっていたらどうでしょうか。5000万人の犠牲を生みだした第二次世界大戦のようなことがあっても、その戦争を引き起こした国の指導者は罪に問われないなら、極端な話ですが、何百万人かが死ぬ程度の戦争が起きても、その責任を追及する道理はどこにもないということになったでしょう。国際刑事裁判所をつくる機運も生まれなかったのは確実です。

 つまり、重大な欠陥を抱えつつも、東京裁判があったから、私たちは侵略は許されないものだという認識を共有できている。そして、侵略を裁く裁判所をつくるという合意までできたということなのです。

 こういう経過があるから、日本は、東京裁判を受け入れた国として、本来ならば、侵略する国があればそれを国際刑事裁判所に告発し、断罪させるだけの道理をもつ国なのです。東京裁判はおかしかったと言い続ける国だったら、他の国の侵略を裁くこともできません。裁判の結果を潔く受け入れていることをもっと強調することが、日本が世界から侵略をなくすイニシアチブを発揮する国になる上で、どうしても必要なことです。

 そうなんです。だから、東京裁判への「勝者の裁き」という批判に対して、同調してもいいんだと思います。その同調する世論を、どうやって味方にしていくかという観点が大事なのではないでしょうか。というか、「勝者の裁き」というのは事実ですから、そこに反発してしまうと、本来は味方になる人を相手側に追いやってしまうのです。

 そして、考え方の異なる相手であっても、どこかで気持ちが通じ合うところがあれば、対話は成り立つのだと思います。いつも言うことですけれどね。