2016年1月29日

 明日が「自衛隊を活かす会」の札幌企画なので、本日からやってきました。すべて札幌の方におまかせなので、前日くらい手伝わなければということで。だけど、何もやることはありませんでした。ありがたいことです。

 先日、北海道新聞に告知記事が載ったので、その後、テレビ局やら新聞社やら(個人からもですが)、私の携帯に電話がかかってきました(私の携帯が「会」の事務局なもので)。注目されていますよね。それとは関係ないけど、本日は、ある県の弁護士会から、その県の退職自衛官で安保法制に反対している人を紹介してくれという電話までありました。さすがにそれは無理でしょ。

 明日は南スーダン企画です。駆けつけ警護問題ですよね。これって、そこだけに目を奪われると、自衛官と意見がかみ合わないかもしれません。

 南スーダンの自衛隊は復興支援の任務をもって派遣されているわけで、道路や橋の修復などをしているわけです。でも、もしそこに日本のNGOとか国連の職員がいたとして、武装集団に襲われるようなことがあったら、やはり「助けたい」と思うでしょう。それが自然な心の動きです。

 だから、最初にカンボジアに派遣されたときも、選挙の支援で日本人のボランティアがたくさん来ていて(41名)、その投票所を道路工事のための「調査」という名目で巡回したわけです。その投票所が襲われれば、自己防衛の範囲で守れるということで。そういう点では、事実上の駆けつけ警護を法すれすれの線でやったわけです。何も起こらなかったから問題にならなかったけれど。

 おそらく、南スーダンに派遣されている自衛隊も、駆けつけ警護の任務が付与されるかどうかにかかわらず、そこに命の危険にさらされる人がいれば「助けたい」と思うでしょう。その気持ちは否定できない。

 だけど、南スーダンは、もはやカンボジアと同じレベルではないことが問題なんです。カンボジアは、いろいろあっても、紛争当事者の停戦合意があって、国連PKOが中立の立場で活動していた。だけど、南スーダンは、停戦合意そのものがなくて、国連PKOは文民保護のためには武装集団と交戦していいということになっているわけです。まさに戦争の真っ最中であって、「警護」なんてもんじゃない。

 そういうPKOだから、PKOといえば必ず顔を出してきたスウェーデンやノルウェーは部隊を出していないのです。戦争が波及することを怖れる周辺のアフリカ諸国が部隊を出して戦争しているのです。

 だから、日本がやるべきことは、「駆けつけ警護」任務を付与するかどうかの水準を超えて、まず自衛隊を撤退させることでしょう。そして、戦争を終わらせるために日本が何をやるべきかを、とことん議論することでしょう。あるいは伊勢崎賢治さんがよくいうように、非武装の自衛官を送って停戦監視を徹底することでしょう。

 明日、どんな議論になるか楽しみです。どなたかが、「自衛隊を活かす会」のシンポは予定調和じゃないといっておられましたが、明日もそうなるでしょう。

2016年1月28日

 出版社で編集の仕事をしていて「役得」だなと思えるのは、誰もがまだ目にしたことのない考えを、著者の草稿段階で読めることだ。他の仕事では味わえないことだろう。

 本日は『日本憲法史』の草稿を読んだ。著者は著名な歴史学者で某国立大学教授。

 いやあ、刺激的だった。頭が揺さぶられるって、こういうことを言うのだろう。

 何が刺激的って、まずタイトル。『日本憲法史』と言われて、いったいいつから歴史がはじまるということになるだろうか。

 1冊だけ同じタイトルの本が出ているけれど、憲法学者の大石真さんが書いている。これは明治憲法が出発点だ。憲法と明確にいえるものはこれだから、まあ常識的かもしれない。だけど、私が読んだ草稿はそれとは異なる。

 というと、聖徳太子の「17条憲法」を思い浮かべる方がいるかもしれない。それとも異なる。そもそも「17条憲法」って、名前だけ憲法で、憲法としての内実がないから。

 じゃあ、何を基準に憲法の歴史がはじまるといえるのか。それって、いま流行の議論だが、「立憲主義」の思想というか、政府権力を縛る法令のようなものがあらわれたときということ以外にはない。

 そういう観点で日本の歴史を見たとき、立憲主義がいつ生まれ、日本ではどのように発展してきたのかというのが、この本の主題である。かつて存在しないアプローチだ。

 中身は、本が出るまで、このブログでは書かない。著者の専売特許だからね。サブタイトルだけ紹介するので、想像してほしい。「800年の伝統と日本国憲法」。

 立憲主義って、従来型の解釈では、ヨーロッパに生まれ、日本に輸入されたということになっている。安倍さんは、そういうものに縛られるのがイヤで、それが立憲主義を踏みにじる自民党の改憲案になっている。

 立憲主義には日本的な伝統があるということは、その安倍さんや自民党改憲案への有力な批判になり得ると感じる。「日本の伝統を破壊する安倍政権は退場しろ」って感じかな。お楽しみに。

2016年1月27日

 昨日は、福島の「生業訴訟」の2か月に一度行われる公判の日でした。200名ほど参加する原告ですが、傍聴できるのはわずかなので、その他の方のためにずっと講演会を開催しています。

 そして昨日、講演会にお招きしたのは映画作家の想田和弘さん。ニューヨーク在住ですが、生業訴訟にも弊社にも航空運賃を出す余裕はなく、日本に来られる機会と公判の日が合致したら福島に足を伸ばしてほしいとお願いしていたのです。その願いが叶った日でした。

 テーマは「安倍政権とどう闘うか」。想田さんに私が伺うという形で進行しました。

 そのお話の全貌はどこかで活字にして公開します。私が印象に残ったのは、真実に迫るための想田さんの方法論です。

 想田さんって、まず事実を映像に収めるという手法です。特定のテーマにしばられず撮りまくり、のちに、そこからテーマを浮かび上がらせる。

 9.11のときにニューヨークでNHKの仕事をしていて、「悲しみのなかで一致団結するニューヨーカー」というテーマを与えられ、取材するのだが、それに反する現実が多く存在する。星条旗を売って儲けようとする人々の諍いとか。

 テーマにしばられると、現実をゆがめることになることを体験されたわけです。しかも、そのテーマに沿ってタリバン政権への憎悪で一致団結していくニューヨーカーを見てしまった。そこから、現在の想田さんの手法が生まれたわけですね。

 これって、映像というかドキュメンタリーだけの手法であってはならないと思います。本づくりだって、たとえば安倍さんを批判する本をつくるに際して、目の前にある現実のなかには、安倍批判に収まりきらない現実、褒めるべき現実が出てきます。

 その際、テーマと違うので無視してその現実を切り捨てるのか、その現実を受けとめ、なぜそんな現実が生まれるのかをふまえて、批判を展開するのかで、まったく違った本が誕生します。後者の本でないと、説得力は生まれてこないのです。

 だから、想田さん、安倍さんを映像に収めるとしたら、一切の思いこみを反して現実を撮るのだとおっしゃってました。その結果、安倍さんに惹きつけられることがあったとしても、そうするのだということです。実際にはそうならないでしょうけど、そういう手法が大事だと私も思います。

 想田さんには今後ともお世話になります。よろしくお願いします。

2016年1月26日

 本日は福島に来ています。来た理由に関することは明日にでも書きますが、本日は関連する話題。

 福島原発事故をきっかけに開始された朝日新聞の「プロメテウスの罠」。楽しみにしてきた人もいるでしょうし、嫌気がさして「もう見なくなった」という人もいるでしょう。

 この連載、5年目の3.11を前にして、総括的な段階に入っていると感じませんか。そろそを連載の結論を出そうとしているという感じです。

 そして、ここに来て、かなり記事の観点、角度が違ってきたと思います。その象徴が、週末(23日)から開始された「食わんで結構」という連載です。

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 お気付きの方もいるかと思いますが、これって、弊社の本を主題にして展開しているんです。『福島のおコメは安全ですが、食べてくれなくて結構です』。サブタイトルは「三浦広志の愉快な闘い」。著者はかたやまいずみさんです。

 この本、帯に、こうあります。「福島のおコメは安全だという声と、食べるのが恐いという声と、その接点がここにある」。

 「プロメテウスの罠」って、私の印象では、「食べるのが恐い」系の記事が続きました。それはそれでいいんですけど、一方で、安全な農作物をつくるために努力している農民がいて、全袋検査をしても大丈夫だという結果が出ているという事実もあるわけです。

 その両者の間で諍いがあって、脱原発という点では関係者の一致があるはずなのに、世論が分裂してしまっている。計って安全性が確認されていると確信している人は、「恐い」という人を「非科学的」と思い、「恐い」系の人は安全を主張する人を「政府・東電の回し者」みたいに思う。

 単純化すると、そういう構図があったと思います。このままでは、脱原発とか、政府・東電の責任を追及するという点で、世論が分裂したままになる。そこを克服したいという願いで、この本はつくられました。

 本のタイトルになっているのは、主人公である三浦さんがいつも発する言葉です。昔から自分の体を大切にするために無農薬でおコメをつくってきて、安全なコメをつくることにはこだわりがあります。だから、3.11以降も、自分や家族のためにもと、安全なコメをつくってきた。

 だから、安全性には自信があるのです。だけど、消費者には買ってもらえない。普通なら、「安全なんだから買ってくれよ」「他の県産のコメは計っていないから、そっちの方が危険かもしれないよ」と言いたくなるはずです。

 でも三浦さんは、「食べないで結構」と言い続けています。「食べろ」といえば、分裂するからです。敵は政府と東電なのに、国民の側が分裂してはいけないと思うからです。売れないことの責任は怖がる消費者にはなく、事故を起こした政府と東電にあるから、そこに賠償を求めるのだという姿勢が一貫しているからです。

 朝日新聞が、そういう三浦さんに注目して、「プロメテウスの罠」に反映させていることが、とってもうれしいです。

2016年1月25日

 宜野湾の市長選挙は残念でした。課題がうきぼりになった選挙でしたね。

 普通の市民の気持ちになれば、普天間基地は一刻も早くなくなってほしいんです。そして、同時にその市民の目には、安倍政権が続く限り、辺野古移設に反対すると、いつまでも普天間基地はなくならないように見えてしまう。

 これまでは、そこを、「大義」で克服してきました。巨大な新基地をつくることが沖縄県民全体への挑戦であって、沖縄のどこであっても移設は許さないことで県民が団結してきたわけです。

 しかしやっぱり、普天間基地を抱える宜野湾の市民は、大義と一刻も早くなくなってほしいという気持ちの間で矛盾を抱えこんでしまう。それで4年前、今回と敗北が続いたわけでしょう。

 ここを克服するのは容易ではありません。いくつもの課題があるでしょう。

 安倍さんは、基地問題は国政の課題であって、一つの市長選挙の結果で左右されるものではないと言ってきました。これは民意に逆らうものではありますけれど、逆の意味での正論でもあると思います。やはり国政の課題なんです。

 その国政で、日本国民が、沖縄に基地を押しつける安倍政権を支持している。そこを覆すことなしに、沖縄の基地問題は解決しないのです。当たり前のことですけれど。

 沖縄を応援するということで、本土からツアーがあったりして、それはそれで大事です。しかし、何のために大事かというと、沖縄の人々を励ますというより、そこで得られたことを、自分が居住する場所で活かしていくことができれば大事だということだと思います。

 自分が居住する場所で、参議院、衆議院の選挙を展望し、自公の候補を倒すための知恵や力をもらってくる。その役に立つようなものであってほしい。そのためになら積極的に沖縄に行ってほしい。

 安倍さんは政権をとっていて、いくらでも法律をつくったり改正したりできます。だから、辺野古への移設を「合法的」に進められるんです。それに対抗しようと思えば、沖縄の民意だけでは足りません。本土の民意が不可欠です。

 あくまで「合法的」に移設を推進してくる安倍政権に対して、どこかで本土から何万、何十万の人々が辺野古に集まって対峙するような状況をつくれるのか。そういう状況をつくるためにも、自分が住んでいるところで、一人ひとりが周りの何百人、何千人を変えていく取り組みが求められるでしょう。

 「沖縄の民意に逆らうのか」と抗議するのではなく、「おらが街の民意に逆らうのか」という水準になったとき、状況が変わるのかもしれません。

 出版社として何をするか。沖縄問題で数冊の本を予定していますが、もっと考え抜かないとね。