2016年7月11日

 強がりじゃありません。本当にそう思います。

 だって、このブログで書きましたけれど、最大の指標は32の1人区でどうなるかでした。前回選挙では31あって、野党は2勝でしたが、今回なんと11勝ですからね。

 そう。5倍も増やしたのだから、そこに未来を感じるのは当然です。個々の政党の伸長とかを超えて、野党共闘には未来があることを、是非、感じ取ってほしいです。

 国民投票も楽しみです。直接に国民に訴えて支持してもらうって、どんな感じでしょうかね。

 安全保障問題をないがしろにすると、選挙には勝てないことが示されましたよね。その問題で、またもや産経新聞デジタルに書きました。出したものと掲載されたものは、見出しが違いますけど(はげしい見出しになってる!)、中身は同じですので、是非、読んでください。

民進党が生き残るのは「野合」が何物かを生み出す時だけ

 この特集の共通タイトルは、「『民共』共闘で消滅する民進党」だそうだ。民進党が道を誤ると、本当に消滅することになるかもしれない。そうならないために何が必要なのか、アドバイスのつもりで書いてみる。

●自民党と変わらない民進党は支持されない
 民主党が政権の座から転落した記憶は新しい。その原因としてすぐに思い浮かぶのは、福島第一原発事故の対応をめぐる迷走であったり、政策実現の財源としての「埋蔵金」探しの失敗であったりする。それらをちゃんと総括していないため、いまだに支持率が低迷しているのが現状だ。政権をとった際の「コンクリートから人へ」という訴えは新鮮だったが、失敗を総括しないまま、今回「人への投資」を約束しても、それが果たして実現可能なのかという危惧を国民は抱いたままなのである。
 同時に、民主党から民心が離反した最初のきっかけが、安全保障に関わる問題だったことも忘れてはならない。そう、「普天間基地の県外移設」という約束を反故にしたことだ。
 当時の民主党は、「対等平等の日米関係の実現」を掲げていた。国民の大半は、日米関係は大事だがせめて基地の一つくらいなんとかならないのかとも感じていたので、民主党のスローガンは国民の気持ちに合致するものだった。そういう気持ちは現在も続いており、だから米軍駐留経費を100%支払えとするトランプ氏に対して、産経新聞が「(世界で突出する)日本の負担は、……『安保ただ乗り論』への反論材料でもある。さらに、沖縄の基地問題にみられるように国土を提供することの『重み』や政治的コストは数字に代えがたいものがある」(5月25日)などと「反論」したりするわけだ。ところが当時の民主党は、普天間基地問題での変節に続き、在日米軍に対する思いやり予算をそのまま継続する特別協定を締結するなど、日米関係を少しも変えることができなかった。
 自民党と変わらないなら老舗の自民党に任せよう。これが民主党を政権から引きずり落とした民意の底流にあるものだったと感じる。

●安全保障政策の選択肢を提示するカギ
 現在、共闘する野党の安全保障政策をめぐって、与党から「野合」という批判が強まっているが、それは日本共産党を除くと、与野党間で安全保障政策に違いがないことの反映である。民進党が共産党と政策協議をするとして、その道のりが平穏でないことは確かだろう。しかし、民進党が与党と同じ政策にとどまっていても、やはり老舗の自民党に任せようということになるのである。民進党は、安全保障問題では何を維持し、何を変えれば、自民党とは違うというだけでなく、安心して命を預けられる政党として、国民に選ばれるようになるのか、そこをよく考える必要がある。
 そのカギは、普天間問題で変節したときの鳩山首相(当時)の言明にあると思う。多くの方の記憶にあると思うが、鳩山氏は、「抑止力の観点から海外は難しいという思いになった」「学べば学ぶほど抑止力(が必要)との思いに至った」と、「抑止力」を県外移設ができない理由として語ったのである。
 アメリカの抑止力に頼るということが、日本においては、安全保障の常識のように捉えられてきた。しかも、何が抑止力で、米軍をどう配置すれば抑止力として機能するかは、すべてアメリカが決めることになっているので、日本防衛の中心問題なのに日本には口出しができないのが現状である。鳩山氏の変節は、抑止力に頼る構造をそのまま是とする限り、日米関係を変えることはできないことを示している。
 ところで、抑止力依存は証明不要の公理のようになっているが、そもそも抑止力とは何なのかが大事だ。民主党の菅政権の時、抑止力の定義が閣議決定されたが、そこでは「侵略を行えば耐え難い損害を被ることを明白に認識させることにより、侵略を思いとどまらせるという機能を果たすもの」(2010年6月8日)とされている。「耐え難い損害」を与えるというのは核兵器を使用することを意味する。しかも、核抑止という考え方は、アイゼンハワー政権時の「大量報復戦略」とともに確立したことで分かるように(トルーマン政権の「封じ込め戦略」に替わり)、ただ核兵器を使用するというだけでなく、相手を全滅させるような軍事態勢をとることを意味している。実際、冷戦時は、ソ連や中国に存在する数千の標的に対して、瞬時に核兵器を投下することが想定されていた。
 抑止力に頼るということは、もともとはそういう考え方なのである。それを冷戦が終わって20年以上が経ってもそのまま受け継ぐのか。民進党が考えるべき問題はこれである。

●旧来型の抑止が通用しない時代
 「敵」がソ連の時代には、抑止という考え方もあり得ただろう。何といっても、ソ連は世界を共産主義にすることを理念としていたわけで、西側諸国にとって政治的、経済的、イデオロギー的に相容れない相手だった。共産主義に魅力を感じる人も世界中にいたから、よけいに警戒感も強まった。なくなってほしい相手だったといえる。だから、軍事面でもそれにふさわしい壊滅の態勢をとるということは、西側諸国の政治支配層にとって自然だったわけだ。当時、野党が政権をとっても安全保障政策の基本は維持すべきだと主張する人は多かったが、西側の価値観の枠内に立つ限り、それも当然のことだったと思われる。
 いまわれわれが相手にしている中国は、当時のソ連と同様、政治的、イデオロギー的に重大な問題を抱えている。しかし、なくなってほしい相手とまではいえないことは、アメリカやイギリスが(日本もだが)経済的に切っても切れない関係になっていることでも明白だ。中国に魅力を感じる人など世界にはいないだろうから、影響力の広がりを警戒する必要もない。
 また、現代の安全保障上の最大問題であるテロのことを考えると、旧来型の抑止が効かないことは多言を要しない。オバマ大統領の「核兵器のない世界」構想の一つのきっかけとなったのは、キッシンジャーやシュルツなど安全保障関係者が、テロに対して抑止力は無効だと説いたことである。オバマ政権が公表した「核態勢の見直し」(2010年4月)では、抑止の重要な要素である核の先制使用(相手が通常兵器で攻撃してきても核を使用する)を見直すことを将来の課題としている。
 そういう時代に、60年も前にできた抑止力という古い考え方に、ただただしがみつく自民党と同じでいいのか。戦後の日本は、最終的にはアメリカの抑止力に頼るという政策をとったので、日本自身の防衛政略は持たないできたが、そのままでいいのか。「専守防衛」という言葉は生まれたが、それとて全世界的な米ソ戦争の一部として、ソ連軍を日本周辺で叩くというものであって、言葉だけのものであった。一方の護憲派は、防衛政策を持たないことを誇りとしていた。
 それらの結果として日本では、日本らしい防衛戦略は誰からも生み出されなかった。民進党にとって必要なのは、時代にふさわしい安全保障の哲学を確立した上で、それをアメリカに提示して堂々と議論し、ともに戦略をつくりあげるというような気概ではないだろうか。

●日本の地位は新しい安全保障の哲学にふさわしい 
 抑止力という枠内でも、いろいろなバリエーションが可能である。日本はこれまで、アメリカの抑止力に依存していても、どんな時点でどのように核兵器を使うのかについて、まったく関与できないでいる。しかし、NATOでは、核兵器をどう運用するかを加盟国すべてが協議するための常設の機構があるのであって、その程度のことはアメリカに要求すべきだろう。
 あるいは、同じ抑止力という言葉は使われていても、かなり実態が異なる安全保障論も生まれている。これまでのように相手の全滅を前提とした旧来型の抑止を「報復的抑止」と位置づけ、相手の侵略の程度に見合った反撃を覚悟させる新型抑止を「拒否的抑止」とする考え方もある。後者ならば、国際法上の自衛の三要件と接点が生まれ、これまでは建前にすぎなかった「専守防衛」が、本物になっていく可能性がある。それは、キッシンジャーらが提唱する核兵器に依存しない安全保障構想とも、どこかでつながっていくはずだ。
 そういう新しい安全保障政策を確立する上で、日本は絶好のポジションにいる。日本は、アメリカの抑止力に口を差し挟めないようでいて、実は大きな影響を与えてきた。1960年代、当時の技術水準では、ソ連極東部や中国を瞬時に叩くには、日本本土への核配備が不可欠だったし、米軍は何度もそれを画策したが、日本国民のきびしい反核世論のなかで、実現することはなかったのである(だから「持ち込み」だけに限定された)。
 このように抑止力は、冷戦時代にあっても、それを乗り越える哲学に直面する場合、「不磨の大典」ではなかったのである。自民党政権にとっては、日本国民の反核世論は安全保障のための邪魔者だったわけだが、それを新しい安全保障政策を確立するための哲学として活用すべきなのだ。

●民進党と共産党の「野合」はなぜ大事なのか
 民主党がそこまでたどり着くには、新しい出会いが求められる。旧来型抑止力に浸りきった政党だけを共闘相手にしているようでは、新しいものは生み出されない。民進党には新しい相手との出会いが求められるのであって、日本共産党との「野合」はその一歩になる可能性があるのではないだろうか。
 いうまでもなく共産党は、憲法制定議会において、吉田首相に対して自衛権の必要性を説いた政党である。60年代から80年代にかけて、社会党の「非武装中立」に対抗し、「中立自衛」政策を掲げていた。日本防衛のための自衛組織が必要だと考え、そのためには憲法9条の改正まで展望するというのが、この政策の核心であった。自衛力がないほうが平和になるというお花畑的な左翼ではない。出自はしっかりしているのだ。
 現在の共産党は、9条は変えないという立場になり、日米安保の解消、自衛隊の段階的解消を綱領でうたっている。しかし、自衛力が不要になるまでにはかなりの時間がかかることも、よく理解している。だから昨年、国民連合政府を提唱した直後に、日本の自衛のためには日米安保も自衛隊も使うべきだという態度を打ち出したわけだ。共産党の出自を考えると、この対応は突然のものではなかったし、不思議でも何でもない。
 とはいえ、自衛隊を解消するという方針を長く堅持してきたため、共産党のなかには自衛隊を否定的に捉える人々も少なくない。憲法に違反するという程度の認識にとどまらず、自衛隊を日本の平和と国民の命の対立物であるかのように考える人々である。そういう現状が、参議院選挙最中の藤野政策委員長の「人殺し予算」という許しがたい発言を生み出したりするわけだ。共産党は藤野氏を事実上更迭し、「国民の命を守る自衛隊」という立場を打ちだすなどしているが、内部での議論は開始されたばかりの状態である。
 したがって、民進党と共産党が安全保障政策を議論するとして、その行方がスムーズなものでないことは確かだろう。決裂も覚悟した激しい議論が必要だ。
 しかし、日本の新しい防衛政策は、自民党に対抗して政権をねらう覇気を抱く(はずの)民進党と、これまで自民党の防衛政策を徹底的に批判してきた共産党と、その両党の葛藤のなかでだけ生まれる可能性がある。それができなければ、民進党は自民党と変わらない政党として、存在意義そのものが問われることになるだろう。(了)