2016年7月26日

 昨日の続きです。この頃はまだ、九条の「理想」への言及が多かったですね。誰もが言えることなので、最近は私はあまり強調しませんが。

(以下、紹介)

2、九条が現実的な理想であることへの確信をひろげる

 「憲法九条を守ろう」という世論を多数にするうえで、もう一つ大事だと思うことがあります。それは、九条が実際に世界で求められているということ、世界は九条の方向に近づいてきているということを、大いに語っていくことです。

 九条が理想を描いたものだということは、多くの国民にとって共通の認識でしょう。けれども、少なくない人びとの目には、理想だけれども現実的ではない、ある意味では空想的なもの、として映っています。

 しかし、九条が先駆的に打ち出した問題が、やがては世界で普遍的なひろがりを見せたことは、いろいろな分野に存在します。いくつか紹介しましょう。

●非核三原則の広がりと集団的自衛権への批判
 九条によって誕生した日本国有の政策の一つに、非核三原則があります。「核兵器は持たない、つくらない、持ち込ませない」という原則です。

 同様の原則をもつ国際的な取り決めに、非核地帯条約というものがあります。日本がこの原則を宣言した当時(六八年一月)、世界には、効力をもつ非核地帯条約はありませんでした。しかし、同じ六八年、世界ではじめてラテンアメリカ非核地帯条約が発効しました。そして、八五年には南太平洋、九五年には東南アジア、九六年にはアフリカと、次つぎと非核地帯が広がっていきました。今年中には、中央アジアでも非核地帯条約がつくられる予定です。

 こうして、南半球はほとんどが非核地帯になり、北半球にまで広がりつつあります。九条をもつ日本が宣言した内容が、何十年もかけて、世界の常識になったのです。

 集団的自衛権はどうでしょうか。たしかに、憲法が誕生した当時、集団的自衛権を認
める考えが、国際政治ではふつうだったといえます。国連憲章の集団的自衛権を根拠に、戦後すぐ、世界中で軍事同盟がつくられました。

 ところが、集団的自衛権が実際に発動されると、その正体がただちにあきらかになります。五六年、ソ連の支配からの脱却をめざし、ハンガリーで反政府運動がひろがると、ソ連は軍隊を送って鎮圧しました。その行動が国際社会から批判されると、ソ連は、集団的自衛権を発動したのであって、国連憲章にそった行動だと弁解し、さらに大きな批判をあびることになります。

 その後も、集団的自衛権をかかげた軍事行動は、すべて違法な軍事行動でした。ソ速によるチェコやアフガニスタンへの軍事介入、アメリカのベトナム、グレナダへの侵略などです。これらの多くは、国連総会で、国連憲章違反だと批判されました。アメリカは、ニカラグアへの攻撃に際しても、集団的自衛権だと表明しました。しかし、八六年、国際司法裁判所は、アメリカのいう集団的自衛権は正当化できないと判決を下しました。

 こうして、集団的自衛権を否定する日本国憲法九条の正しさが、国際政治の実践のなかで、しだいに試されていったのです。

●武器輸出への国際的批判をつくり出した憲法九条
 大事なことは、世界が九条に近づいてきた、というだけではありません。そういう動きをつくるうえで、九条が実際に役割を発揮したことです。その一例として、九条が生みだした武器輸出禁止原則をみてみましょう。

 日本は、六七年、紛争当事国などに武器を輸出しないことを決めました。七六年、憲法の平和原則があるのだから、そういう国だけでなく、すべての国に武器を輸出しないことにしました。

 武器の製造能力がありながら、それを輸出しない国という のは、世界でも希有な存在です。武器の輸出は、多大な利益をもたらすため、多くの国が当然のように実施しています。大国であるほどその傾向は強く、国連安保理常任理事国の五カ国だけで、世界の武器輸出の八五%を占めています。国連の中心にある国が武器輸出でも中心なのですから、武器輸出を規制しようという動きは、戦後ほとんど見られませんでした。

 しかし、イラクが大量の武器輸入で軍事大国になり、クウェートを侵略した(九〇年)ことをきっかけに、野放図な武器輸出への反省が生まれました。

 九一年、国連は、戦闘機や戦車、ミサイルなど七つの武器の輸出入を国連に報告する制度を発足させました。

 また、現在、世界中に氾滋する六億ともいわれる小型武器(自動小銃など)が、毎年、五十万人の命を奪っています。国連は、この十年間、小型武器の輸出入などをどう規制するか、会合を開き、行動計画を作成してきました。

 日本は、九一年につくられた武器輸出入の報告制度を国連に提案し、実現した国です。また、小型武器規制の行動計画づくりをまかされたり、関連会合で議長をつとめるなど、積極的な役割を果たしています。それは、日本が武器を輸出していないため、世界の国を説得し、いろいろな提案を実現できるだけの道義的なカをもっているからです。外務省も、次のようにのべています。

 「日本は武恭輸出を原則的に行っておらず、輸出を前提とした軍事産業もないことから、国際社会をリードできる立場にあると言える」(『日本の軍縮・不拡散外交』二〇〇四年四月)

 九条が世界を動かしているというのが、国際政治の現実です。この貴重な九条を失うことは、世界にとっても大きな損失になるのではないでしょうか。

●日本がアジアで受け入れられるためにも九条は不可欠
 九条は、アジアを侵略した日本の戦後の原点であるとともに、アジア諸国が日本を受け入れ、友好関係を保つ保障であることも、あらためて強調しなければなりません。

 昨年末に発生したスマトラ沖地震と大津波により、三十万人ともいわれる甚大な被害が発生しました。このさい、戦後六十年にしてはじめて、かつて日本が侵略、支配した国(インドネシア)に自衛隊が派遣され、救援活動をおこなうことになりました。

 日本政府はこれまで、侵略戦争への反省も十分でないまま、自衛隊をアジアに派遣できるようにするため、必死の活動をつづけてきました。

 災害救援が名目だったら相手国も受け入れやすいだろうと考え、九二年、国際緊急援助隊法(災害時に医者や看護師を派遣する仕組み)を改正し、自衛隊を派遣できるようにしました。

 ところが、九八年にパプア・ニューギニアで津波被害が起こり、政府が自衛隊の医官派遣を打診したところ、パプア・ニューギニア政府の返事は「ノー」でした。パプア・ニューギニアは、第二次大戦で日本軍が侵略し、海軍の基地を置いた場所です。日本兵も十三万人以上が戦死しましたが、現地の人びとにも多大の犠牲を強いることになりました。それから半世紀以上がたち、目的は災害救援に限定され、自衛隊とはいえ、医者が丸腰で来るというだけだったのに、侵略の記憶は消え去らなかったのです。

 その結果は日本政府にとって深刻でした。政府は、その後昨年まで、四回にわたって災害救援のために自衛隊を派遣することになりましたが、日本が侵略したことのない国だけに限ることになったのです。

 インドネシアでも、日本が侵略した記憶は失われていません。それなのになぜ今回、自衛隊を受け入れたかといえば、そのこだわりを押し流すくらい、被害の規模が巨大なものだったからです。同時に、日本が戦後、一人も海外で人の命を奪ってこなかった、そのことを保障してきた憲法九条がまだ存在しているということが大きな意味をもっています。自衛隊がくるといっても、「かつてのようなことは起こらないだろう」という人びとの受け止めが、自衛隊を拒否しなかった背景にあります。

 日本共産党は、自衛隊が災害救援のために海外派遣されることについて、これまで反対したことはありません。一人でも二人でも、それで人の命が助かるのなら、貴重な仕事だと思います。

 けれども、自衛隊がそういう活動をすすめるためにも、憲法九条は必要なのです。日本が戦争しない、人びとの命を奪うことはしない、銃口を向けないと約束しつづけてこそ、アジアの人びとは、日本を心から受け入れてくれるようになるのではないでしょうか。(続)