2016年10月31日

 ロシアに対してもはや社会主義の言葉は通じない。レーニンがこうしたからオマエも見習えよと言われて、かつては痛いところを突かれたわけですが、いまは痛くもかゆくもない状態です。それならどこでロシアに翻意させることができるのか。

 領土不拡大をロシアに迫ってきた共産党のもう一つの論拠は、「第二次大戦終戦処理の原則は領土不可拡大」というものでした。だから、この条項を破棄させて、千島列島全体を日本のものにしなければならないというわけです。

 この領土不拡大というのが「原則」と言えるほどのものかどうかは、なかなか微妙な問題です。歴史的経緯と現実はどうなんでしょうか。

 大戦で領土不拡大を明確にした最初のものは、いわゆる大西洋憲章(41年8月)です。ただしこれはアメリカとイギリスが合意したもので、ソ連は当事者ではありません。

 翌42年1月、連合国共同宣言が発せられ、ソ連も含めて大西洋憲章を支持することが謳われます。ただそれは、前文においてだけで、明示的に「領土不拡大」が取り上げられているだけでなく、もっとも大事な本文は、全力でドイツや日本と戦うぞという共通の意思を確認するものです。

 日本に対する戦後の方針を確認するため、43年11月、カイロ宣言が発せられました。このなかでも「領土不拡大」が述べられています。しかしこれも、アメリカ、イギリス、中華民国が合意したものであり、ソ連は参加していません。また、領土不拡大といっても、実際の文章は「領土拡張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ズ」というもので、米英中3国は領土拡張の気持ちはもっていないという程度であって、「原則」とまでいるものかは議論があるようです。

 さらに、このカイロ宣言の直前、アメリカはソ連に対日参戦を求め、それに対してスターリンが千島をもらえるなら参戦すると申し出たという事実があります。その経緯を踏まえると、カイロ宣言は、領土不拡大の原則をあいまいにすることによって、ソ連の対日参戦の障害を取り除いたものだと言えないこともありません。

 この問題でもっとも考えなければならないことは、戦後の「現実」が、領土不拡大などは問題にもならなかったことです。日本では千島問題ですが、ドイツも同じ問題があります。

 地図を見てください。これは戦後のポーランドの国境図です。水色はポーランド領だったものをソ連が自分のものにした部分です。それに変わって、黄色の部分をポーランドはドイツから拡大したのです。

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 黄色の土地に住んでいたドイツ人は1100万人もいたと言われます。千島にいた日本人が1万7000人ですから、桁違いなんです。

 ソ連はよく、「第二次大戦の結果として確定した領土の尊重」という言い方をします。ドイツから土地を取り上げたけれど、それは戦争の結果なのだから尊重せよということです。そして1975年、全欧安全保障協力会議において、この結果をヨーロッパ諸国が追認することになりました。おそらく、その1100万人をはじめ、ドイツでは相当な軋轢があったと思いますが、それを侵略の結果として、そして現在の安定のため、なんとか容認せよというのが、戦後の欧州政治の流れだったわけです。

 つまり、ソ連は、戦時中の領土不拡大の動きには建前としても参加していないし、戦後は、領土拡張を既成事実としてヨーロッパ諸国には認めさせてきた。千島も70年にわたって実効支配してきた。

 そういうなかで、領土不拡大をどの程度まで原則だと言えるのか、全千島返還要求の論拠としてどの程度成り立つのか。これは真剣に考えるべき問題でしょう。(続)

 

2016年10月28日

 北方領土をめぐる日ソ政府間交渉は、ソ連が崩壊するまで、まったくといっていいほど動きませんでした。日本政府が「4島一括返還」方針を打ち出すと、ソ連政府は「第二次大戦の結果として確定した。解決済み」という立場に変わり(60年安保改定も口実となりました)、お互いが日ソ共同宣言を脇に追いやることになって、かみ合うような議論になっていかなかったのです。

 そこに一つの風穴をあけたのが、共産党の新政策(昨日の記事)と、それにもとづく日ソ両共産党間の交渉でした。とりわけ79年末の交渉でした(日本側団長は宮本顕治)。ソ連側は、日本政府に対しては「解決済み」を繰り返していたのに、日本共産党に対しては、交渉の結果、「注意深く忍耐強く聞いた。それは私たちに聞く耳があるという証拠です」と応じた上で、公表された共同声明において、「(領土問題等を確定するための)日ソ平和条約を締結する」必要性を認め、「今後とも意見交換をつづけることで合意した」のです。

 共産党の代表団が帰国したあと、日本の外務省の幹部がこの結果を歓迎することを表明しました。日本政府は、ソ連崩壊後、「2島先行返還」論で事態を打開しようと試みるのですが(表面では「4島一括」と言いつつ)、その背景にあるのは、成果をあげた共産党の「2島先行返還」論だったと思います(ですから鈴木宗男さんらの「2島先行返還」論をなぜ共産党が批判したのか、いまでもよく分かりません)。

 共産党の新政策のポイントは、第二次大戦の結果として領土を獲得するということ自体への批判にありました。大戦の結果としてサンフランシスコ条約で千島を放棄したこと自体がおかしいということです。

 その論拠は二つあって、一つは、第二次大戦で連合国は、戦争の結果として領土の獲得は求めないという領土不拡大の原則を掲げただろうというものです。もう一つは、その領土不拡大という考え方は、第一次大戦でレーニンが先駆的に掲げたものであって、社会主義国こそがそれを守らなければならないというものです。

 このどちらがソ連側に突き刺さったのかは、会談に参加したソ連側の当事者でないと分かりませんが、おそらく後者だと思います。前者についてはソ連側はこれまで一貫して肯定的な見解をとったことがありません(理由は後述)。代表団長だった宮本さんは、帰国後、会談では「社会主義者の言葉」で語ったと述べています。いくら社会主義にふさわしくない行動をとっていても、ソ連の生みの親であるレーニンを否定することはできないわけで、ソ連側も「痛いところを突かれた」ということになったのでしょう。

 ただし、ソ連が崩壊してから、もう20数年が経っています。いまでは社会主義の言葉は通じないわけです。そういう時代にふさわしいアプローチが求められていると感じます。(続)

2016年10月27日

 安倍さん、本気のようですね。2島先行返還で先鞭を付けた鈴木宗男さん、佐藤優さんは、4島一括を叫ぶ右派をはじめ共産党も含む批判のなかで追い落とされたわけですが、その佐藤さんに言わせると(「週刊ポスト」だったか)、2島先行であっても、右派の支持で成り立つ安倍政権なら克服できるとか。まあ、それで解散して自民党が総選挙に勝てる材料になるかどうか分かりませんが、そういう見方も可能だとは思います。

 ということで、北方領土をめぐって、いくつか論じておきます。この問題を考える上では、共産党の政策と比較することで理解しやすくなることも多いので、そういう見地からです。

 共産党は70年代初めまでは、歯舞、色丹については日ソ共同宣言にもとづき返還を実現する、他方、南千島(国後、択捉)は日米安保条約を廃棄することによって展望を拓くという考え方でした。2島先行返還の4島論だったわけです。

 しかし、70年代に徹底的に研究した上で、新しい政策を打ち出します。21世紀になって重要な問題で変更があるのですが(後述)、当時の政策のポイントをまとめると以下の3つになるでしょう。

 1つ。歯舞、色丹は北海道の一部である。確かに、サンフランシスコ平和条約で日本は千島列島を放棄したけれども、歯舞、色丹は放棄した領土ではないので、即時返還すべきだ。
 2つ。サンフランシスコ条約で千島列島(南千島も北千島も)を放棄したこと自体が誤りである。したがって、この条項(2条C項)の廃棄を関係各国に通告し、全千島返還を実現する。
 3つ。千島列島返還まで時間を要するがそれまでソ連との関係が不正常なのは望ましくないので、平和条約は千島返還とセットだが、歯舞、色丹の返還が実現した時点で、平和条約に至る中間的な条約を結ぶ。

 一方、日本政府はどうだったか。当初、日ソ共同宣言を結んだ時点(56年)では、この宣言に歯舞、色丹の引き渡しで平和条約を結ぶと書いているわけですから、宣言の当事者としてそういう態度だったわけです。

 しかし、ご存じのように「ダレスの恫喝」があって、ソ連との関係をこじらせておくことが不可欠だという観点から、態度を変更します。サンフランシスコ条約では千島を放棄すると書いているけれど、そこにいう千島には南千島は含まれておらず、国後、択捉は日本固有の領土なので、歯舞、色丹とともに一括返還を求めるというものでした。サンフランシスコ条約を締約した国際会議で、日本もアメリカも南千島も含めて放棄すると明言しているのに、その前言を翻したわけです。しかも、共産党のように条約のその条項が問題だというのではなく、条約は尊重するというのです。

 率直に言って、これでは北方領土問題は解決しません。そもそも、解決しないことでソ連との関係を緊張させることが目的になってつくられた政策なので、解決するはずもなかったわけです。

 それでも、なぜ「国後、択捉は条約で放棄した千島にあらず」という態度をとったのか。それは「固有の領土」という言い方とも関係するわけですが、歴史的に他の国の領土となったことが一度もないという事実が背景にあったと思います。北千島はソ連(ロシア)の領土だった事実があり、それが千島・樺太交換条約で日本のものになったわけですが、南千島はずっと日本の領土だった(これが「固有の領土」論)というわけです。

 それに加えて、北千島とは異なり、国後、択捉に住んでいた日本人が多かったという現実も大きいと思います。敗戦時には1万7千人も住んでいたわけで、それらの方の望郷の思いに応えることが求められたのではないでしょうか。(続)

2016年10月26日

 本日の「赤旗」1面トップ。南スーダンでの自衛隊派兵を延長する閣議決定批判記事の脇に、7月に発生した大規模な戦闘をめぐり、アムネスティ・インターナショナルが公表した「報告書」のことが報道されている。

 見出しが「政府軍は住民虐殺 PKOは住民守らず」となっている。これって、見出しからでも分かるのは、PKOが住民を守っていないことを批判する報告書だ。PKOは住民を守れという立場のものだ。

 これは当然である。本文を引用すると、よりリアルに分かる。

 「政府軍は反政府勢力に多いヌエル続に属する男性を拉致・射殺するとともに、女性をレイプし、略奪を繰り返したとしています」
 「報告書は……国連施設の真正面で5人の兵士にレイプされた女性の証言などを紹介。国連PKOが住民を保護する責任を放棄したとして、『失望した』と述べています」

 PKOを批判しているのはアムネスティの「報告書」だが、見出しをつけたのは「赤旗」の整理部の記者である。「赤旗」記者も、「PKOは何をしているんだ」「真面目に仕事しろよ」と思ったのだろう。でも、そこからが難しい。

 だって、「赤旗」を発行している日本共産党は、このPKOに参加する自衛隊に保護(警護)する任務を与えることに反対している。それだけでなく、自衛隊の撤退を求めている。

 いま、南スーダンには、保護しなければならない住民がいる。昨日の閣議決定に際して、誰か閣僚が、「どの国の部隊も逃げ出していない」と発言していたが、実際、国連は、住民を保護しなければということで、部隊の増派を決め、先制攻撃の任務を与えたわけだ。

 自衛隊の撤退を論じるにあたり、アムネスティや国際社会のそういう気持ちをふまえないと、世論から浮いてしまうのだろうと思う。「赤旗」整理部記者さえ、そういう感情を持つのだから。日本だけは撤退して、あとは他国に任せるというのでは、非難囂々である。

 南スーダンはおそらくこう動いていく。まず増派があって、PKOが力で政府軍を押さえつけていく。しかしそういうやり方は短期間しか効果がないだろう。結局、政府軍がPKOに反撃をし、交戦状態に陥っていく。その結果、いまPKOに敵意を感じ始めているのは、保護されないで怒っている住民だけだが、それが政府系の人びと、部族にも拡大していく。そうしてPKOは南スーダンの国全体から敵意に囲まれていくのではないだろうか。そうなるとソマリアの再現であって、出口はなくなってしまう。

 だから日本は、増派で情勢が安定している隙に、伊勢﨑賢治さんがいうように、なんとか自衛隊を撤退させる政治合意をつくるべきなのだと思う。しかしそれは小康状態でしかなく、政府軍とPKOの戦争になってしまうことが確実に予想される。そうなったら、PKOに被害が出るなんていう程度のものではなく、南スーダンの独立が危うくなってしまう。

 日本は現在の自衛隊の部隊を撤退させたら、それに代わり、これも伊勢崎さんの受け売りだが、丸腰で軍事監視にあたる国連の部門に丸腰の自衛官を派遣し、交戦当事者に対して戦闘を終わらせることを説得すべきではないのだろうか。また、南スーダンの経済支援策をつくり、これもすべての交戦当事者に対して、戦闘行為が終わったらこんな国づくりができると、いまから提示していくことが求められるのではないだろうか。

 いちばん大事なのは、南スーダンの住民保護と独立のため、日本は何をやるのかということが前に出ること。自衛隊の撤退は、その包括的な対策の一部として位置づけるべきだと感じる。

2016年10月25日

 昨日の続きです。ここに全文が載っています。

3、東南アジアでは「対日協力者」に否定的なイメージがない理由

 その問題を考える上で、「対日協力者」という言葉を取り上げてみましょう。この言葉が、韓国や中国では、侵略者であり支配者である日本に加担した人を指すものとして、完璧に否定的な意味で使われていることは論を俟ちません。両国では、日本の侵略や植民地支配を批判するのに、何の証明も不要です。
 しかし、では、東南アジアはどうなのでしょうか。たとえば、ビルマ史に詳しい根本敬氏は、『抵抗と協力のはざま』(岩波書店)で次のように語っています。
 「英国の植民地だったビルマでは、宗主国の英国や戦時中の占領者である日本に対し協力した政治・行政エリートが、そのことのために戦後にマイナスのイメージを背負わされたり、非難されたり、否定すべき記憶として国家によって強調されたりするなどの事実は見られない」
 我々は、中国であれ東南アジアであれ、日本は侵略した国家だという認識をもっています。その認識は正しいのです。しかし、同じ侵略であっても、独立国家である中国に対する侵略と、それ以前に欧米の侵略を受けて植民地支配されていた東南アジアに対する侵略とでは、おのずから性格が違っています。
 ここでは詳しく書きませんが、東南アジアの人びとのなかには、欧米による植民地支配から抜け出すために、新たな支配者となった日本を利用するというような思惑もありました。実際にも、戦争が終わって再び支配者として戻ってきた欧米を打ち倒すため、日本によっていったんは欧米の支配から脱した事実を利用したのです。そのため、東南アジアの人びとのなかからも、日本の戦争がアジアの解放につながったという声が生まれることがあります。
 日本会議は、そういう東南アジアの声を利用して、日本の戦争を肯定する見方を広げようとします。それに対して、日本の侵略を重視する人たちは、そういう声があることを無視したり、否定したりするやり方をとってきたと思います。しかし、その声があることは事実ですから、無視したり、否定するやり方では、日本会議の影響力を削ぐことはできなかったのだと思います。

4、光と影を統一した歴史の見方を提示することが大事だ

 これは、ほんの一例です。他にも同じような事例がたくさん存在しています。
 それらを貫くものは何か。単純化することになりますが、日本会議は、日本の歴史のなかの「光」の部分を取り上げ、それが日本の歴史の全体像であるかのように描いてきました。一方、それを批判する人びとは、「影」の部分を日本近現代史の本質であるかのように主張してきました。こうした構図のなかでは、国民世論というのは、聞いていて気持ちのよい「光」の強調のほうに傾くことになってしまったのだと感じます。
 日本の近現代史が、ただ影ばかりの歴史だったかというと、それは事実に反します。欧米がアジア全体を植民地にしようと企んでいたなかで、日本が独立を守り抜いたという一点だけでも、誇るべきことだと思います。ただ、その光も、みずからが朝鮮半島を支配することになったという影と密接不可分だということなのです。
 いま求められるのは、光と影を統一させる方法論だと感じます。著名な歴史学者である吉田裕氏も、次のように指摘しています(「戦争責任論の現在」岩波講座『アジア・太平洋戦争』第一巻所収)。
 「戦後歴史学は、戦争責任問題の解明という点では確かに大きな研究成果をあげた。しかし、国際的契機に触発される形で研究テーマを戦争責任問題に移行させることによって、それまでに積みあげられてきた重要な論点の継承を怠ったこと、戦争責任問題、特に戦争犯罪研究に没入することによって、方法論的な問い直しを棚上げにしたことなど、戦争責任問題への向き合い方自体の内に、重要な問題点がはらまれていたことも事実である。戦争責任問題を歴史学の課題としていっそう深めてゆくためには、この問題の解明を中心的に担ってきた戦後歴史学そのもののあり方が、今あらためて、批判的に考察されなければならないのだと思う」
 冒頭に紹介した『「日本会議」史観の乗り越え方』は、こうした指摘に学びながら、素人なりの問題提起としてまとめたものです。多くの方からご批判をいただければ幸いです。(了)