2017年1月17日

 『対米従属の謎』を読んだということで、昨日、ある週刊誌の日米安保問題の連載の一環として取材を受けました。取材のあと、その週刊誌を買ったら、今週号は石破さんが登場しているんです。

 来週号は鳩山さんらしく、私はその次か次の次かということで、「私でいいんでしょうか」と思っちゃいます。取材相手としての「異色の経歴」についても突っ込んで聞かれました。

 確かに異色ですよね。取材を受けながら考えたんですが、過去、対米従属とか日米安保問題とか、ずっと関心を持ちつづけてきました。まあ、仕事ですから当然なんですが、「二つの敵」の一つだったわけですから、仕事でなくても考えざるを得ない対象だったわけです。

 ただ、いろいろ思考を深めても、結論は単純で、「日米安保を廃棄する」という以外のものはなかった。日米安保のもとでは自立もできないし、平和にもならないしということで、すべての思考は「安保廃棄」という結論を導くためのものだったと思います。

 その最後の結論部分だけはいまも変わらないわけですが、何と言ったらいいんでしょうか、思考過程に柔軟性が必要だというのが、この間の私の変化と言えるのかもしれません。結論ありきということでは、おそらく、日米安保の枠内で思考している人たちとの接点がなくなってしまうということが分かって、そこに至る過程をどう打ち出すのかが大事だと考えるようになりました。

 NATO諸国だって、アメリカとの軍事同盟の枠内においても、ある自立性があるわけです。だから、安保のもとでは自立はないと言ってしまったら、NATOの現実を知る人にとっては違和感が生まれます。だから、日米安保をNATO並みのものにすることだって、思考過程では経験しないと、その次の段階に行けないのだと思います。

 そこまで行くと、なぜNATO諸国は可能で日本はダメなのかという思考が生まれてきて、そもそもNATOと日米安保って、似ているようだけと違うものじゃないのかという段階に行き着くことができると思うんです。

 ちょっと抽象的な話ですみません。東京の大事な会議の前で焦っています。是非、本を読んでくださいね。今朝、東京世田谷の成城9条の会から15冊も注文がありました。ありがとうございます。