2017年5月31日

 国連人権理事会の「特別報告者」の資格や役割が議論になっている。特別報告者が共謀罪を懸念する書簡を日本政府に送り、それに対して政府が、特別報告者は個人の資格で活動しているし、「書簡は国連または人権理事会の見解を述べたものではない」などとする答弁書を閣議決定したことで、それをどう見るかが議論になっているわけだ。

 特別報告者のことは、以前、かなり勉強した。国連人権理事会(10年以上前は人権委員会という名称だったが格上げされた)が北朝鮮の人権状況を調査する特別報告者を任命し、毎年、報告書が出されていたからだ。

 この制度は、国連が南アフリカのアパルトヘイトを問題にする過程で生み出されたもので、伝統あるシステムである。人権理事会が任命するが(日本は理事国なので日本政府も承認したということだ)、日本政府が言うように「個人」の資格で活動し、国連から報酬はもらわない。問題になっている国や、そこと関係する国を調査し、人権侵害の実態を明らかにし、どうすべきかという報告書を作成するわけである。国際人権法の専門家が任命される場合が多い。

 人権問題というのは、その性格上、内政干渉とすれすれである。政府権力による国民の人権侵害を扱うわけだから、当然だ。だからこそ、政府からの圧力を受けないよう、個人の資格で活動するのである。政治的な考慮に左右されず、あくまで国際人権法の理想を基準として、ものごとを判断する。何十年もの実践の積み重ねのなかで、人権問題を改善して行くにはそれが一番大事だと考えられるようになり、定着してきた。日本政府は、「個人」資格で活動していることを権威がないように描いているが、個人だからこそ重みがあることを知らねばならない。

 北朝鮮問題で特別報告者が任命されてきたと書いたが、最近までそれをやってきたのはマルズキ・ダルスマン氏である。日本政府は今年春、ダルスマン氏に対して「旭日重光章」を与えた。叙勲されるほどの功績を残したということだ。北朝鮮政府から独立した個人だから、それほどの評価を得るような活動ができたということだ。

 この特別報告者の制度だが、最近まで、南アフリカにはじまって北朝鮮やキューバなど、いわゆる「人権後進国」を対象にした制度だった。まあ、人権問題を扱うわけだから、仕方ない面もあった。

 しかし、それに対して開発途上国から異議が出される。その結果、特定の国を調査するというだけでなく、「表現の自由」などのテーマを設定し、そのテーマですべての国を調査するやり方を取り入れた。その結果、「人権先進国」も特別報告者の調査対象になる時代が、新たに訪れているのが現在である。

 新しいやり方だから、いろいろ軋轢も生じるだろう。しかし、人権問題というのは、「ここまで達成したからもう終わり」というものではない。不断の前進が求められる分野である。個人の専門家との緊張関係だけが人権状況を前進させる。ただ反論し、問題にするということでは、特別報告者の報告を批判し、罵倒してきた北朝鮮のように見えるから、注意したほうがいいのではないだろうか。

2017年5月30日

 「自衛隊を活かす会」が17日に開催した政党対象の円卓会議「南スーダン後の日本の国際貢献」の動画をアップしました。珍しく最後まで真面目に司会を務めました。なお、いつも動画のあとにテキストもアップしますが、今回、テキストはありませんので、ご了解ください(10人ほどの国会議員に確認を求める煩雑さを避けるという、ただのサボりなんですが)。

 これ、泥憲和さんをお誘いし、泥さんも是非、出たいと言っておられたんです。これまで十数回のイベントをしましたが、その半分以上に参加されていましたし。泥さんのフェイスブックのトップにあるタイトル、「自衛隊を否定するのでもなく、国防軍や集団的自衛権に走るのでもなく」というのは、この会の設立趣意書からのパクリですし。すごく気持ちが通じ合っていたんです。

 泥さんが亡くなる8日前(25日)、最後のメールが来て、病状を伝えてくれたことはここで書きました。そのメールでは、もう「安静に最期を迎えることができるかという段階」に至ったので、対外的な活動を中止すること、「そういうことですので、自衛隊を活かす会にも後ろ髪を引かれるのですが、参加することができなくなったことをお詫びいたします」と書かれていました。

 17日の円卓会議のあと、当然、懇親会をしたのですが、もちろんその最初の乾杯は、伊勢崎賢治さんの音頭で泥さんに捧げました。泥さん、本当にご苦労様でした。

 そうしたら28日、NHKスペシャルで「変貌するPKO 現場からの報告」をやっていましたね。ご覧になりましたか。

 自衛隊を活かす会もこういうことをお伝えしようとしているわけですが、やはり映像はリアルですね。映像一般がリアルということではなく、真剣にいい映像を撮ったからそういうことが伝わるんでしょうね。

 一つだけコメントするとすれば、やはりオランダの教訓でしょう。スレブレニツァの惨劇というのは、日本の国際貢献の今後を考える上で不可欠なできごとですし、自分でもどの本かでそれを書いたことがあります。だけど、そのオランダが、それを教訓にして、これほど国際貢献の現実を国民にリアルに伝え、判断材料としていることは、まったく知りませんでした。

 もちろん、日本もそうしなければならないわけですが、オランダのように、何千人もの虐殺を自衛隊が見逃すというような体験をせずに、あるいは逆に自衛官が殺されるという体験をせずに、国際貢献のあり方を議論できるようにならなければいけない。そういうことが可能なのか、あるいは日本も同じ体験をしないと議論にならないのか、なかなか先が見通せません。泥さんだったら、どうしたんでしょうね。

 円卓会議では、南スーダンで実際に活動しているNGOの代表お二人が、リアルな報告をしてくれました。勉強になりました。ただ、議論の時間は不足していて、次の機会を必ずもうけるとお約束したので、それを実現したいと思います。

2017年5月29日

 さて、「似ているなあ」と感じたことを書いてきたけれど、もちろん違いも大きい。とりわけ社会主義の評価と組織の問題かな。

 やはり、私より少し上の世代は、若い頃に社会主義への幻想みたいなものがあったのだろう。だから、スターリン批判で「これは社会主義ではない」と感じ取り、ソ連の崩壊にあたって、どんな種類のものかは別にして、あれ大きな感傷を抱くことになった。「トロツキスト」なんだったらソ連が崩壊しても何の感慨もないだろうと思うのに、安彦さんにはこだわりが感じられる。

 一方の私は、スターリン批判は小学生だったので知らないが、もうそれが前提となった社会主義観で出発した。プラハの春を見て、「社会主義というのはこういう社会」だと思いながら大きくなったし、大学に入って中国の核実験をめぐる日本共産党の混乱ぶりを外から見て、「まだ共産党は社会主義国というものに幻想を持っているのだ」とびっくりしたくらいだ。

 そんな私が共産党というものに近づいたのは、社会主義国に共産党はまだ幻想は持っているにしても、ソ連や中国とのはげしい論争を見て、それなら信頼できると感じた部分があったからだ。中国などを評価するような共産党だったら、何の興味も湧かなかっただろう。社会主義ソ連が崩壊した時も万歳したから、共産中国が崩壊する時も同じ態度をとるだろう。

 それと関連するが、私にとっての社会主義とは、中国やソ連とは対極にある「自由な社会」のことであった。『資本論』で描かれているように、「各個人の完全で自由な発展を基本原理とする、より高度な社会形態」「自由な人々の連合体」というものである。「個人」の自由こそが大事である。そんな社会が簡単に来るなどとは思わないが、何世紀後かにはやってくると思う。そんな先の社会のことを党名に掲げるかどうかは微妙な問題だろうけれど。

 同時に、そういう社会を実現できるとすると、それを担う組織も、同じような原理で運営される組織だと感じる。『共産党宣言』には、「各人の自由な発展が万人の自由な発展の条件であるような一つの協同社会」という言葉が出て来る。これは社会主義の特質として規定されたものだが、組織のことを考えても、「各人の自由な発展」が組織にとっても「自由な発展の条件」になるような組織である。

 そういう組織の原則を確立し、運用できたとき、社会主義は魅力を回復するかもしれない。安彦さんは、組織そのものに幻滅しているが、私はそれほどではない。まあ、簡単ではないという言葉では完璧に足らないほど簡単ではないのだけどね。私は努力してみる。

 安彦さんのこの本、岩波書店の担当編集者は尊敬する大山美佐子さんだ。良いお仕事をしてますね。私も頑張らなくちゃ。(了)

2017年5月26日

 さすが私が愛する「赤旗」。さっそく訂正記事を出してくれました。「24日付、「核兵器禁止条約を公表」の見出しと記事で「『核の傘』の提供禁止」とした部分は不正確な内容でしたので、削除します」。ということで、連載に戻ります。

 「日のあたらないところにいたから、好きなことをやってこれた。国家とは、個人とは、ナショナリズムとは……。そもそも、そういうテーマを抜きにしたら、私にとってマンガを描く根拠がなくなってしまう。私は芸術家じゃない。だからこそ、自分が描いているものが社会的にどういう意味があるのか、それがいつも、ひっかかるところです」

 本書で安彦さんが語っている言葉だ。自分流に書き直すと、次のようになるだろうか。

 「日のあたらないところにいたから、好きなことをやってこれた。自衛隊と九条を対立させるだけのやり方でいいのか、植民地支配したからといって支配された国の間違った議論にも反論してはならないのか、中国・北朝鮮脅威論に染まる人とも多少は心が通じ合わないと次の段階の対話にも進めないではないか……。そもそも、そういうテーマを抜きにしたら、私にとって本を書いたり出版したりする根拠がなくなってしまう。私は真の意味での編集者じゃない。だからこそ、自分が書いているものが社会的にどういう意味があるのか、それがいつも、ひっかかるところです」

 安彦さんは、世界で通用する日本のマンガとアニメのおもしろさについて、以下のように述べている。

 「はっきりいえるのはテクニックではないということ。……ただ一ついえることがあるとしたら、それはやりたいことをやり、自分がつくりたいものをつくるということではないか。それが日本のものづくりの生命線であり、世界に通用する作品をつくる原点ではないのか」

 まあ、私の場合、世界に通用するどころか、日本でも通用していない。でも、「やりたいことをやり、自分がつくりたいものをつくる」という点では、こころざしは同じである。自分で確信できないことを人前でしゃべったり、本にしたりはできない。もし、かもがわ出版が社会のなかでそれなりに意味のあることをできているとしたら、つくりたい本をつくってきたからだ。だから、このやり方を貫くことによって、通用するようになっていきたい。

 ただ、安彦さんは、次のようにも書いている。

 「普遍的価値も、オリジナリティーも、矜持も、無くていい。受けて、食わなくてはならない。が、あくまで創作者であり続けなければ、その世界に棲み続けることも、いつかは出来なくなってしまう」

 そうだよな。「受けて、食わなくてはならない」というのも同じだ。いまのやり方で食ってはいけてるけど、新しい挑戦、冒険がないと、この「世界に棲み続けることも、いつかは出来なくなってしまう」だろう。頑張らなくちゃ。

 この本の本文は、以下の言葉で締めくくられている。

 「サブカルチャーとして、あくまでサブカルチャーとして」

 そう、私も、メインの支配的な言説に違和感を感じ、別の選択肢を提示するサブカルであり続けたい。メインを鍛えるためにも、そうでありたい。

 連載の最後は、安彦さんと私が異なる点について。昨日、予定外の記事を書いたので、来週になりますけど。(続)

2017年5月25日

 連載中だが、見逃せないことがあったので、書いておく。本日の「赤旗」に昨日の記事の訂正報道でも載っているかと期待していたら、なかったので仕方がない。

 核兵器禁止条約の原案が発表された。7月7日まで開催される国連会議にかけられるもので、おそらく採択されることになる思われる。核兵器の違法化を決めるものであって、実際に核廃絶のプロセスに進むことを担保するものではないが、核兵器は違法だという法的な規範が確立するのは大事なことだ。

 共産党は、志位さんが3月の国連会議に参加するなど、積極的な対応をしてきた。民進党などがブレた態度をとり続けているなかで、大事なことだと思う。昨日の「赤旗」には、その志位さんの「核兵器禁止条約草案を心から歓迎する」という「声明」が出されている。

 昨日、1面に掲載された「声明」を読んだ上で、2面の報道記事に目を移したのだが、啞然としてしまった。ダメでしょう。

 見出しに「「核の傘」の提供禁止も」とある。さらに、本文ではこうなっている。

 「自国領土や管理下にある地域で、核兵器のいかなる駐留、設置、配備も行ってはならないと規定。核保有国が同盟国に「核の傘」を提供することを禁止する内容です」

 「核兵器のいかなる駐留、設置、配備」(本日付の抄訳では「配備、設置、展開」となっている)を禁止したことは事実だ。しかしそれを「核の傘」の提供を禁止したと表現するのは誤りである。

 もちろん、アメリカなど核保有国が、同盟国に対して提供する「核の傘」の一部として、同盟国のなかに核兵器を配備することはあり得る。しかし、韓国に核兵器を配備していないことでも分かるように、そういう配備は「核の傘」にとって不可欠のものではない。

 「核の傘」にせよ「核抑止力」にせよ、その本質的な要素は、そういうものではなくて、いざという時には核兵器を使用して壊滅させるぞという「威嚇」である。その威嚇によって、相手国の侵略を抑止するというのが、核の傘であり核抑止なのである(それに賛成するか反対するかは別にして)。

 そして、今回の核兵器禁止条約原案は、いろいろなものを禁止する画期的な内容ながら、その「威嚇」だけは禁止していないのである。3月の国連会議の際、スウェーデン代表などが、「威嚇は条約の禁止対象から外すべきだ」と発言したが、その通りになっているのだ。

 なぜそうなっているのかについては、「赤旗」以外の各紙が報道している通りである。「これを禁止事項に含めると、「核の傘」を安全保障の柱とする日本や北大西洋条約機構(NATO)の国々などが加盟交渉入りすることを難しくする恐れがあった」(朝日新聞)からなのだ。「威嚇」の定義が難しかったということもあるそうだ。

 この事実をどう評価するかは、条約の全体をどう評価するかにも関わってくる大事な問題である。核の傘や抑止力を容認するものなら評価してはならないという意見もあるだろう。反対に、核兵器の使用は禁止されているわけだから、それほど大きな問題ではないという立場もあるだろう。あるいは、アメリカの同盟国が参加する道を空けておくことが、条約の信頼性を高めることになるという立場からの賛成論もあるだろう。

 しかし、いずれにせよ、条約を評価する上で、この事実を抜かしてはいけない。ましてや、核の傘が禁止されているなどと、事実をゆがめてはならない。志位さんの声明でも、「核兵器の法的禁止の主要な側面を、包括的に規定」とされているように、禁止されているのは「主要な側面」であって、すべての側面ではないのである。

 「赤旗」しか見ない真面目な共産党員は、「核の傘」が禁止されたことを真実だと思い込むことになるだろう。核兵器廃絶を求める署名運動などのなかで、それを宣伝したりもするだろう。しかし、それに対して、「事実でない」という批判が周りから寄せられることになり、戸惑ってしまうだろう。

 事実をゆがめるやり方は、核兵器禁止条約を力にして、実際に核兵器の廃絶に向かっていく上で、決して有益なものにならない。明日には訂正が載ることを期待する。