2017年8月3日

 この秋、『経済企画庁とは何だったか──その復活のための墓碑銘』(仮題)という本の刊行を予定している。著者は、この企画庁の幕を引いた当時の事務次官の方だ。順調に仕上がっていて、中身はそのうち紹介することになると思う。

 この本のなかに、経済企画庁の源流をつくった人の話がたくさん出てくる。戦前のマルクス経済学者で講座派だった人も労農派だった人も、戦争で壊滅した日本の再建のために力を尽くしたわけだよね。

 その中の一人が都留重人さんである。日本の第1回経済白書は都留さんが執筆したわけ。その後も、経済白書を議論する場にはよく出てきたらしく、宮崎勇さんなどは都留さんに批評される会議に緊張して臨んだらしい。

 私にとっての都留さんは、大学(一橋)入学当時の学長である。学長とお話しする機会なんて想像もしていなかったけど、一度だけ親しくお話しできた。

 貧しい家の出の私が東京の大学に入るためには、寮に入るのとセットでないとあり得なかった。だから学生数に比して募集が多い寮のある大学ということもあって、この大学を選んだわけだ(社会学部というのが国立ではここしかなかったのが一番大きい理由だけれど)。

 それで寮委員をやると手当が出るということで、すぐに寮委員になった。その際、びっくりしたのは、当時の寮委員会というのは、石原慎太郎氏を信奉する人たちの系列につながっていたことだ。寮委員長選挙になると、そういう人たちと民青の人たちがぶつかって、民青は敗れていた。当時、大学では左翼が席巻していたわけだが、長崎大学の自治会と(これは現在「日本会議」の事務総長をしている椛島氏が委員長になった)と、一橋の寮自治会だけが異端だったんだね。

 教養部の寮なので、秋の委員長選挙は1年生が立候補することになり、私は、その両派から「出ろ」と言われて、無投票で当選することになる。争いを好まない私の融和的な性格って、当時から変わらないんだね。ま、それはどうでもいいけど。

 その秋から冬にかけて問題になったのが石油ショック。大学のトイレからトイレットペーパーが消えて、その芯で拭いたという笑えない話も飛び交った。

 寮では、石油の値上がりで暖房費が不足した。そこで一生懸命署名集めして、寮生全員の署名を持って、学長室に殴り込みに行った。文部省から補助金を獲得して、その一部を寮の暖房費に回してほしいという内容である。

 そうしたら、約束もなく訪れたのに、都留さんは穏やかな表情で学長室に招き入れてくれて、真剣に話を聞いて下さったのだ。自治会の団交で、「授業料をとるのは税金の二重取りだ」という批判に対し、いつも毅然と反論していた都留さんだが、ただ黙って聞いてくれて、「分かりました。努力しましょう」と約束してくれた。

 その後、ホントに暖房費が増えて、なんとか寒い冬を乗り切ることもできたのである。感謝、感謝。

 戦後、自民党政治ではあったが、そういういろいろな人が日本を形づくってきた。自民党政治だったからただ全面的に否定的に描くというのは、現実ともかけ離れているよね。何を評価して、今後に活かしていくのかが、この本の課題だと思います。