2017年8月21日

 ブログを書かない週末の最大の話題はバノン更迭だった。ということで、遅ればせながら一言。

 バノンが現在のような立場を確立したきっかけとして伝えられているのが、2008年のリーマンショックである。当時、バノン自身はゴールドマン・サックスで活躍していたが、労働者出身の父親は、こつこつと貯めていたAT&Tの株価が一夜にして下落し、すべて財産を失う。一方、株を売りまくっていた金融マンについては、アメリカの政治が問題にすることなく、何の責任もとらずに済むことになった。その理不尽さが、エスタブリッシュメント批判を強烈なものにしたということである。真面目な国民をないがしろにする政治への憤りである。

 これに限らず、資本主義が生み出す歪みが、アメリカ国民の意識に与える影響は大きいものだと感じる。大統領選挙でトランプの勝利を支えたラストベルト地帯の人々を丹念に取材した朝日新聞ニューヨーク支局の金成(かなり)隆一さんは『ルポ トランプ王国』(岩波新書)で、真面目に働けばそれなりの生活を送ることができた時代が終焉し、どんなに働いても楽にならない暮らしになってきて、政治への不満が高じる姿が生き生きと描いている。

 それらを見ながら感じるのは、一つは、アメリカ資本主義の病弊というものを、多くの人が正確に捉えていることだ。自分の暮らしが下降しているのは、企業がとにかく安い労働力を求め、賃金の高い白人を雇わなくなっているからだと、誰もが認識している。

 しかし、二つ目に感じるのは、じゃあ、だからそういう企業行動をコントロールしようという議論が、国民の間からはほとんど生まれていないように見えることだ。問題の根源だとみなされるのは、良くて「政治」のありよう。心の奥底では安い労働力である「移民」ということになる。

 つまり、企業の行動そのものは、どこまで行っても批判の対象にならないように見える。そこが不思議でならない。

 いや、もともとアメリカン・ドリームの国だから、一旗あげようと思った国民が起業し、会社を大きくすることに寛容だとは感じる。それがアメリカ資本主義発展の原動力ともなってきた。

 けれども一方、「企業の社会的責任」という用語は、そもそもアメリカで誕生し、70年代前後に広がっていったものだ。ラルフ・ネーダーという消費者運動の旗手が生まれ、ジェネラル・モータースに社会的責任を果たすよう求めていったことが、頭の片隅に残っている。「公共の利益」を果たさせるための取締役を置くことなどが決まる。

 自動車産業をはじめ、その後のアメリカ経済の発展を支えた一つは、この思想である。社会への責任があるのだから、地域経済にも責任があるし、働く人々の雇用にも責任があるという思想だった。

 ところが、いつの間にかそれが希薄になり、現在のアメリカ資本主義の腐朽を促進しているように見える。その原因とか、打開の展望とか、来年のマルクス生誕200年アメリカツアーで探ってこなくちゃ。