2017年11月2日

 報告の中では、中国の政治社会制度を絶賛する言葉が無数に出てくる。「わが国の実状に合致した先進的な社会制度」なんてね。

 どの国であれ、実状に合致していることは大事である。ただ、第六章の「社会主義民主政治を発展させる」という箇所で以下のように書かれているとおり、中国の民主主義は西側のそれとは違うんだということが、言いたいことのキモであろう。

 「世界に全く同じ政治制度モデルは存在しないのだから、政治制度は、特定の社会・政治条件や歴史・文化伝統から切り離して抽象的に論じられるべきではない」「外国の政治制度モデルを機械的に模倣したりするべきではない」

 もちろん、「外国の模倣」はダメでしょう。一般論としては理解できる。しかし、報告が言いたいのは、共産党の一党独裁だけは変えられないということだ。報告が述べるように、「中国の特色ある社会主義の最も本質的な特徴は中国共産党の指導」なのだから。

 まあ、ここを批判しても、仕方がない。というかむなしい。それが中国そのものなのだから、かみあった批判にならない。

 多少でも報告にかみあったことが言えるとすると、他の国と同じでないことは強調するが、その根拠を説明する必要を感じていないと思われることの問題である。開き直っているんだねということだ。

 先ほど「社会主義民主政治」と引用したけれど、昔の社会主義運動には、社会主義における民主主義と資本主義における民主主義を比べ、前者が優れているのだという「理屈」づけがあった。中国にあったかどうかは知らないが、世界の社会主義運動においては存在した。

 例えば、言論の自由。資本主義においてはカネのあるものは言論にカネをいくらでも投じられて自由を満喫できるが、カネがないとそれができない。だから資本主義においては、形式的には平等であっても、実質面で見ると言論の自由は貧しいものには保障されていないとか。そんな根拠付をして、ある人たちは納得していた。というか、そうでもしないと、自分のめざしている社会主義に確信が持てなかったのである。

 まあ、ところが、実際に社会主義を名乗った国は、国家がカネを出す相手と出さない相手に選別することで、結局は国家の言うことを聞くところにだけカネを出し、言うことを聞かない人の言論の自由を奪ったわけだけどね。そしてそんなみっともない姿を通じて、言論の自由で西洋型と社会主義型を区別する論理は消え去っていったわけだ。それにしても、誰が見ても社会主義のほうが劣っているのに、それを誇るのだから、何かしら「論拠」のようなものは必要とされたのだ。

 しかし、習近平報告のどこを読んでも、そういうものは見当たらない。中国の政治社会制度に欠点はないのだ、最高のものだと、本当に心から誇っているようだ。

 中国のなかでも、つい数年前までは、なんとか民主主義を発展させなければという問題意識があることは感じられた。だから例えばうちの出版社でも、8年ほど前、『中国は民主主義に向かう』という本を出したりもした。

 この本、サブタイトルに「共産党幹部学者の提言」とあるように、中国共産党中央の編訳局長という要職にある人に書いてもらったものだ。一党独裁に切り込むようなものではなかったけれど、どうやって少しずつでも民主主義を拡大するのか、地方で萌芽的に生まれていた複数立候補などを広げていくのかという問題意識があった。中国共産党のなかにも、中国の現状を無条件で賛美できないという考え方があったのだ。ところが、そういう問題意識が潰えさったのが、いまの中国であり、習近平報告である。

 その「共産党幹部学者」の兪(ゆ)可平氏は、日本共産党との理論交流にも中国側代表として出ていたような人で(日本側代表は不破哲三氏)、本を出した時、不破氏への手紙なども寄こしてきた。だから、その手紙を不破氏にお渡しし、本のことを「赤旗」で紹介してもらおうと思っていた。

 しかし、どこにも載せてもらえなかった。広告掲載さえ拒否された。というか、不破氏自身、そのメッセージを受け取ろうともしなかった。推測になるけれど、中国で少しでも民主主義を主張するような声は、結局は弾圧されることを(だからそんな本の広告を載せたら「内政干渉」になりかねないことを)、不破氏は予測していたのかもしれないね。当時、「中国の未来が悲観的なものになる確率は8割」とおっしゃってたそうだから、よく先が見えていたんだね。言論の範囲内のことは「干渉」とは言わないと思うけれど。

 明日から休みで、通常ならブログも休みますが、連載中でもあるし、休みなしで続けます。ホントの理由は日曜日の記事で書きます。(続)