2018年3月8日

 明日から福島行きで、バスのなかでは思うように仕事もできないので、東京にいる間に忙しくしています。ということで、ブログは考えないで済む簡単なことに。

 3.11が人びとの分断を生み出したとはよく言われます。いまでも深く広がっていて、それをどう克服するのか、日夜努力している人びとがいます。

 しかし同時に、私にとっての3.11は、新しい人びととのつながりをもたらすものでもありました。もちろんそれは、分断を克服するだけの広がりと深まりをまだ持っていないので、まだまだこれからなのですが。

 1年目の3.11に浜通りで被災者を対象としたイベントをすることを思いつき、それなら蓮池透さんと伊勢崎賢治さんをお連れしようと考えたことは、何回か書きました。それが発端になって、いろんな結びつきができた話です。

 イベントをするといっても、現地で受け入れてくれる人がいないと、ただただ空回りするだけです。困ったなあと思っていて、そのときふと脳裏に浮かんだのは、蓮池さんの『拉致 左右の垣根を超えた闘いを』を出版した時、相双(相馬と双葉)教職員9条の会が蓮池さんを呼んで講演会を開いてくれたことでした。

 過去のアドレスを探し、メールをくれた方に連絡をとったら、当時、会員の半分くらいは相双にいなくなっていたのですが、ご本人は残っておられて、そういうことをやるならと関係者を集めてくれたのです。それが現在につづく現地の受け入れ体制につながっています。

 その関係者の一人に相馬のスーパー経営者の中島孝さんがいました。なんと、3.11直後に弊社が出した『福島は訴える』の著者のお一人でもありました。その数年後、福島で4000名の原告を擁する生業訴訟が開始され、中島さんが団長になったのですが、訴訟の本を出そうという話になったとき、「出版社はかもがわしかないでしょう」と言ってくれたので、現在につづく生業訴訟との関係が生まれたのです。

 2年目のツアーからは、ずっと池田香代子さんが同行してくれています。そうなったのも、もともとは、蓮池さんの本を出したけれど、左翼や平和主義者が無視していた初期に、池田さんがご自分が住んでおられる杉並の住民運動団体に蓮池さんを呼んでくれて、そこに私も参加して、はじめてお会いすることになったのがきっかけです。

 その池田さんと、2年目のツアーに誰をお呼びしてお話を聞くかとご相談していて、当時、被曝関係の情報の事実を熱心に発信しておられた東大の早野龍五さんを是非にということになり、東大まで二人でお訪ねしました。その際は実現しなかったのですが、それから五年を経て、早野さんは弊社が一月に出した『しあわせになるための「福島差別」論』に寄稿してくださいました。

 3.11がなければ、こういうつながりはなかったんですね。明日は、伊勢崎賢治さん関係で。(続)