2018年10月3日

一、国際的無法との闘争の分野で(2004.7記)

 最初に指摘しなければならないのは、北朝鮮の国際的無法とのたたかいという点で、日本共産党が先駆的な役割を果たしてきたことに、大いに確信をもたなければならないということです。これは中央委員会が配付した小冊子「(党内資料)北朝鮮問題と日本共産党 歴史的な経過の理解のために」を読めば一目瞭然なのですが、重要なことなので繰り返し強調したいと思います。

 よく、在日朝鮮人の帰国運動に日本共産党がかかわったことを取り上げ、その責任を云々する議論があります。責任を追及するまではいかなくても、なぜ北朝鮮の実態がわからなかったのか、という疑問が寄せられることがあります。

 北朝鮮に現在のような体制がつくられてきた経緯はほとんど明らかになっておらず、こんごの研究を待たねばならない部分が多いのですが、帰国運動が開始された1959年の時点では、日本の政党やマスコミで北朝鮮の問題点を指摘するものは皆無でした。いまだから国民生活の困窮が話題になりますが、北朝鮮が工業生産高や農業生産実績などの数字を公表しなくなったのは80年代に入ってからであり、60年代は、発表された数字を見ても、韓国と比べても劣っているという状況ではありませんでした。

<無法のあらわれに最初から断固として対応>

 しかし、大事なことは、日本共産党は、北朝鮮の無法のきざしが見えた時点で、必要な批判をはじめたことです。そして、無法が拡大するにつれ、全面的な闘争をおこなってきたことです。

 最初の転機となったのは、1968年です。この年、日本共産党は、宮本顕治書記長(当時)を団長とする代表団を北朝鮮に送ったのですが、その最大の目的は、北朝鮮がとりはじめた路線の危険性、有害性についての日本共産党の見解を率直に伝え、真剣な検討を求めることにありました。

 具体的な内容については、小冊子にも掲載されている不破議長の「1968年の北朝鮮訪問の記録」に詳しいので、ぜひ熟読してください。きょうの話を理解していただくため簡単にまとめると、67年あたりから、北朝鮮が公表する文書のなかに、韓国への武力介入を示唆するような文言があらわれており、68年1月、それが韓国大統領府 (「青瓦台」)への武装襲撃という最悪の形であらわれたので、代表団を派遣し、その危険性について警告したわけです。北朝鮮側は、表面的には武力介入路線を否定しました。しかし、代表団が帰国して以降、北朝鮮による日本の運動への干渉が開始され、拡大していったのです。それは、日本共産党が北朝鮮の路線を支持することはないから、何でも言うことを聞いてくれる他の政党を取り込もうという意図をもったものでした。

 早くから北朝鮮の路線の危険性を見抜き、批判していたことは、日本共産党が自己宣伝のために誇張しているわけではありません。多少とも朝鮮半島問題に関心をもっている人々の間では、常識ともいえることになっています。

 日朝・日韓関係史の専門家で高崎宗司さん(津田塾大学教授)という方がおられま す。この方が、最近、『検証 日朝交渉』という本を書かれました(平凡社新書)。そこに次のような記述があります。

 「68年1月、北朝鮮が武装ゲリラをソウルに派遣し大統領官邸を襲撃しようとしたことを契機にして、それまで朝鮮労働党(労働党)と交流してきた日本共産党は、労働党と対立関係に入った。平和革命路線をとる共産党は北朝鮮の冒険主義的武装闘争路線を強く批判した。すると、労働党は共産党にかわる日本の北朝鮮支持者を日本社会党に見出した。70年8月には成田知巳委員長を長とする訪朝団を招請し友好関係を樹立した。しかし、社会党はそうした北朝鮮の思惑を十分理解しなかった。そして、次第に北朝鮮の主張を無原則的に受け売りするようになっていった」

 同じく最近、『北朝鮮報道 情報操作を見抜く』という本が出版されました(光文社新書)。これを書かれたのは明治学院大学教授の川上和久さんという方で、自民党の機関紙などにも登場されることのある方ですが、「離れる共産党、近づく社会党」という小見出しをつけ、次のように指摘しています。

 「1968年1月に北朝鮮は、工作員をソウルに潜入させて朴大統領の暗殺を図る 『青瓦台事件』を起こし、ソ連や中国と距離を置く自主路線を歩み始め、金日成独裁体制を強化し始めた」、「こうした北朝鮮を、独裁国家と認識し始めた日本共産党は、次第に北朝鮮とは距離を置くようになる。1973年には、共産党の機関紙『赤旗』の平壌特派員を引き揚げ、1983年のラングーン事件で、完全な断交状態に至る」、「1970年代前後から関係が冷め始めた日本共産党に代わり、まさに北朝鮮との蜜月関係を築いていったのが、日本社会党だった」

 なお公明党も、1972年、竹入委員長を団長とする最初の代表団を送り、金日成主席に礼賛の言葉を連発しました。ですから、「蜜月関係」が社会党との間だけでなかったことは、みなさんご承知のとおりです。

<80年代の公然としたテロ事件と日本共産党の態度>

 この構図は、北朝鮮の無法がより乱暴に、より公然とあらわれた後もつづいていきます。その一つに、いま紹介した川上さんの本で紹介されている83年のラングーン事件があります。日本共産党が北朝鮮と「完全な断交状態に至る」ことになった事件です。  

 ラングーン事件での日本共産党の態度は、小冊子に所収されている論文(「『朝鮮時報』の日本共産党非難に反論する」)を見ていただければわかります。私が指摘したいことは、なぜ日本共産党がこの論文を発表したのかということです。

 この論文は、「朝鮮時報」という、朝鮮総連傘下で日本語で発行されている新聞からの非難にたいする反論です。「朝鮮時報」は、ラングーン事件で北朝鮮を批判する議論が「某政党の機関紙にもつぎつぎと発表されている」として、反駁を試みたのです。いま私が引用した箇所でも明白なように、「某政党」への非難であり、日本共産党を名指したものではありませんでした。しかし私たちは、これを日本共産党への非難だと受け止めました。それは、論文の冒頭にも書かれているように、「ラングーンの爆弾テロ事件にかんして、今日までに堂々と公式見解を発表している政党は、日本では日本共産党だけ」だったからです。

 ラングーン事件といえば、韓国の閣僚を含め40人が死傷し、世界に衝撃を与えた事件です。しかも、ビルマ(現在のミャンマー)政府当局が北朝鮮工作員の犯行だと断 したわけであり、日本共産党が公式見解を発表したのは当然のことです。ところが、日本の他の政党は、このような重大な事件が起きてもなお、堂々と公式見解を発表することができなかったのです。 1987年末、大韓航空機爆破事件があり、翌年1月15日、韓国政府は、拘束した容疑者である金賢姫の供述にもとづき、北朝鮮による爆弾テロであると発表しました。岩波書店から『日本史年表』が出版されており、その昭和史の部分が電子データ化され、『データベース昭和史』としてまとめられています。大韓航空機事件でのっているのは、1月24日に日本共産党が「北朝鮮の犯行と表明」したことと、26日に政府も北朝鮮のテロだとして制裁措置を決めたこと、その二つだけです。歴史の年表に記録されるぐらい、日本共産党の態度は速やかで、インパクトのあるものだったということです。

 金賢姫の供述のなかに、日本から拉致された女性に教育されたという部分があり、 にわかに拉致疑惑が大きな問題となりました。日本共産党の橋本参議院議員が、その2ヶ月後、この問題を国会で追及したことは、みなさんご存知のことだと思います。

<各地、各段階で奮闘した日本共産党員>

 みなさんに確信をもっていただきたいのは、このような北朝鮮の国際的無法との闘争には、みなさん自身が参加し、推進してきたということです。

 北朝鮮との関係がわずかながらも維持されていた80年代はじめまで、全国の少なくない場所で、主題はさまざまですが、朝鮮半島にかかわる問題の集会等がおこなわれていました。だから、そこに党の都道府県委員会、地区委員会の代表が参加したことがあると思います。民主団体から参加した場合もあるでしょう。私自身は、全学連、民青同盟で活動していましたから、青年学生分野の集会にはよく招かれました。

そういう場合、参加者の発言のなかで、北朝鮮の外交政策を支持するよう求められることがありました。たとえば、北朝鮮は、朝鮮半島の統一をめぐる方式として高麗民主共和国連邦という提案をしていましたから、それを支持してほしいというものでした。しかし、私たちは、どのレベルの集会であれ、北朝鮮の外交政策を支持するという発言はしませんでした。

 また、金日成主席が72年に60歳(当時は首相)、82年に70歳になるということで、誕生日の贈り物をしてほしいという要請も各地でありました。個人崇拝のあらわれです。青年学生運動をやっていた私のところにもやってきて、どうやって断ろうかと頭をひねったものですが、「日本共産党の党首にも贈り物はしたことがない。そんな体質は私たちにはない」などといって、帰ってもらいました。みなさんも同じような体験をされたことでしょう。

 こうして、北朝鮮に同調する政党、勢力が少なくなかったときに、日本共産党とその党員は、北朝鮮の干渉とたたかってきたのです。このたたかいの結果、80年代に多くの野蛮なテロ事件を引き起こした北朝鮮が、21世紀になってようやく日本人拉致問題については事実を認め、謝罪し、解決に向かおうとするところまで到達しているのです。北朝鮮が国際社会に復帰するうえでは、過去のいろいろな無法の清算が必要ですが、その最初の突破口になろうとしているのです。このことにぜひ確信をもっていただきたいと思います。(続)