2018年10月4日

二、建設的な提案の分野で(2004.7記)

 同時に、私たちが確信にしなければならないのは、北朝鮮をめぐる問題をどう打開し、解決するのかについても、日本共産党が積極的な提案をおこなってきたことです。ただ覇権主義を批判し、それとたたかってきたというにとどまらず、建設的な提案をおこない、それを実らせてきたということです。

<外交ルートを開けと国会で提案する>

 この経緯と内容は、もう一つお配りしている資料に詳しくのべられています。不破議長の「どう考える北朝鮮問題」というパンフレットです。

 最初は、99年1月です。不破委員長(当時)が、国会の代表質問のなかで、北朝鮮との間で外交ルートを開けと提案しました。さらに同じ年の11月に同じく代表質問で提起したのは、無条件で交渉ルートを開いたうえで、日朝間のいろいろな問題を、拉致問題をふくめすべて交渉のテーブルにのせるべきだということでした。何かを解決したら交渉するというのでなく、前提条件なしに、すべての問題を話し合おうということです。

 この提案は、日朝間の非難合戦が、抜け道のない状況に陥っていただけに、重要な意義がありました。当時、98年秋に北朝鮮のテポドン発射があり、日本列島をこえるミサイルの発射が予告もなしにやられてということで、日本国内では、ミサイルがいまにも日本に撃ち込まれるような議論がありました。それに対抗して、北朝鮮のミサイル基地をたたくべきだという、軍事的な対抗措置も議論になっていた。一方、北朝鮮の側でも、日本が新ガイドラインをつくり、戦争法(周辺事態法)を成立させるということをうけ、日米が共同で攻めてこようとしていると、批判をつよめていました。お互いが、相手が攻めてくるからといって、軍事的な緊張の悪循環を招いていたのです。
 
 ところが、日朝間では、90年代初頭におこなわれた国交正常化交渉が決裂して以来、そもそも交渉の場が存在していませんでした。アメリカや韓国は、日本と同様、北朝鮮との国交は正常化していませんが、それぞれ交渉ルートはあります。だから、ミサイルが発射されれば、そのミサイル問題をどうするのかが両国間で議論になるの に、日朝間だけは非難と軍事的対応の応酬だったのです。

 私も当時、国交が途絶えていた国同士が、それを回復する実例を研究したりしました。日本にかかわるもので一つだけ紹介すると、日本と韓国の国交についても、1951年に交渉が開始されましたが、正常化したのは65年のことです。その間、日本が植民地支配を正当化する発言をして交渉が決裂したり、韓国が日本の漁船を拿捕し、乗員を拉致したため関係が冷え込んだりしました。しかし、在日韓国人問題をあつかう必要があったためですが、韓国は、交渉が開始される前の49年1月から、駐日代表部をおいていたのです。そして、日韓の正規の交渉が決裂している間も、駐日代表部と日本政府は、交渉をどうやって再開するかなどで協議をしていたのです。

 交渉ルートをしっかりともっているということは、このように大事な問題です。緊張が高まっているときこそ、互いに批判しあうこともあるでしょうが、どう打開するかを話し合う場は必要なのです。ここに日本共産党の提唱の意味がありました。

<超党派代表団から日朝交渉の再開へ>

 国会での2度目の代表質問から2週間ほど後ですが、社民党の村山元首相が、志位書記局長(当時)を訪ねてこられました。超党派の代表団を北朝鮮に送るので、日本共産党も参加してほしいという要請でした。その際、2度にわたる国会の提案に注目していると、おっしゃったそうです。先ほど紹介したパンフレットで、緒方国際局長は、この経緯を次のように説明しています。

「実は、2回目の不破質問から、村山申し入れのあいだには、政府にたいして2つの方面からの国際的働きかけがあったんだ、と聞きました。韓国の外交通商部とアメリカの国務省の方から、日本共産党の代表が国会でこういう問題提起をしているのに、日本政府はどうして何もしないのか、と詰められた、というのですね」

 こうして超党派の代表団が、99年12月、北朝鮮を訪問します。日本共産党は、衆議院から穀田国対委員長、参議院から緒方さんが参加します。

 出発前に代表団の会議があり、村山団長から、無条件、無前提ですべての問題を話し合うという提案がありました。いうまでもなく、国会でのわが党の提案と合致するものであり、日本共産党は賛成しましたし、それが代表団としても確認されることになります。
 現地における北朝鮮との会談では、穀田さんが党の方針を説明しました。そうすると、北朝鮮の側は、「よい発言をしてもらいました」と言って、これまでは交渉の前に前提条件がありうまくいかなかった、関係改善があれば問題があってもそこで解決できると発言したそうです。こうして、前提条件なしで国交正常化交渉を再開することが合意され、翌年4月、7年半ぶりに政府間交渉が再開されることになります。

 なお、会談が始まる前、金日成前主席の遺体をおいた廟を訪問する行事があり、日本の他の政党代表は、遺体の前で頭を下げたり、賛辞を記帳するという、いわば恒例の儀式をおこなったそうです。しかし、日本共産党の代表は、団の統一のため行事には参加するが、頭を下げたり、記帳したりしないという態度をとりました。そういう態度をとった後でも、日本共産党の発言の内容については、北朝鮮も反応してきたということです。

 余談ですが、私も、民青同盟で国際活動を担当していた頃、世界民主青年連盟の執行委員会に参加するため、北朝鮮に入国したこともあります。会議の合間に半日の休みがあり、ホストである北朝鮮が小旅行を準備しているというのですが、行く場所は金日成の像があるところだというのです。他の国々の代表は、いやいやながらもおつきあいだからと参加しましたが、私は、個人崇拝に加担したくなかったので同行しませんでした。この態度は、「日本の代表はそこまで徹底しているのか」と、多くの国の代表にも影響を与えることになったと思います。

<平壌宣言から六カ国協議へ>

 以上のような経過のうえに、02年9月、小泉首相が北朝鮮を訪問し、日朝首脳会談が開かれました。会談で合意された平壌宣言は、日朝間の諸問題を包括的に協議し、解決していこうというものでした。私たちが提起してきた方向で、問題を解決しようと言うことです。戦後半世紀以上にわたり、敵対的な関係にあった2つの国が、お互いのすべての問題を話し合い、国交正常化に向かうことは、両国民にとっても、北東アジアの平和にとっても不可欠のことであり、日本共産党は宣言を強く支持することになります。

 一方、会談では、拉致が北朝鮮の犯行であることが明確になり、国民に大きな衝撃を与えます。北朝鮮との交渉を開始することについて、「明らかに時期尚早」(民主党)、「本末転倒」(自由党)などの評価も見られました。しかし、日本共産党は、拉致問題の真相を究明し、全面的に解決するためにも、合意された宣言にもとづく交渉をおこなうべきだという立場をとりました。今回、家族帰国問題で前進があったことも、日朝平壌宣言という基盤、レールがあったことの結果です。この方向で、さらに事態を前にすすめていかなければなりません。

 しかも、平壌宣言は、核問題をも動かしました。宣言のなかでは、「核問題及びミサイル問題」について、「関係諸国間の対話を促進し、問題解決を図る」ことが合意され、6カ国協議(日米韓中ロ朝)が開始されたのです。 6カ国協議は、いろいろな角度から見て、大きな意味をもつものです。戦後史のなかではじめて、朝鮮半島問題ですべての当事国の対話機構ができたということです。朝鮮半島問題というのは、朝鮮戦争以来、この地域の平和と安全にとっていちばん大きな影響を与える問題であり続けたのですが、半世紀以上にわたってすべての当事国が一同に会するということがなかったわけで、その意義は計り知れません。当面の問題を解決するというだけでなく、北東アジアの将来にもつながるものです。

 しかも、どの国であれ協議から離脱する姿勢をとれば、対話を放棄した国として国際的な糾弾の対象となるのであり、壊れにくい仕組みだといえます。何回かにわたって協議が開かれ、意見の隔たりが大きいという報道もありますが、協議を拒否する国が出てこないで、少しずつでも前進していることが大事です。

 私たちの提起が、いまここまで到達していることに、大いに確信をもっていただきたいと思います。(続)