2013年9月6日

 アメリカのシリアに対する軍事攻撃をめぐって、いろいろな論争がある。なかでも、国連の決議が必要かどうかという問題が、ひとつの焦点である。国連決議があろうがなかろうが、武力攻撃はみんな同じだという立場もあるだろう。あるいは、国連決議にもとづく武力行使でも、ソマリアなどに見られるように失敗したではないかという見方も成り立つだろう。

 しかし、まず、国連決議があるかどうかで、法的な正当性という問題は違ってくる。いまさらいうまでもなく、国連憲章は、国連による制裁か、個別的・集団的自衛権の場合の武力行使しか認めていない。今回、どう転んでも自衛権だとは言えないので、法的な正当性を確保しようとすれば、国連決議がどうしても必要になるわけだ。

 もちろん、国連決議が想定しているのは、いわゆる国連軍である。安保理のもとで軍事参謀委員会が戦略的指導をするような戦争である。それに対して、国連決議があるといっても、実際におこなわれる武力行使は、主体が多国籍軍だったりする。しかしそれでも、90年代以降の実践の積み重ねによって、それを国連憲章の精神に沿ったものだと解釈するようになってきたのである。

 しかも、たとえ国連憲章の想定とは異なり、かなり変則的だとはいえ国連決議があるかどうかは、実際に問題になっている紛争の解決のうえで、それなりに意味がある場合があると思う。実際に行われる軍事攻撃の性格も変わってくる。

 そのことが大事だと思うのは、湾岸戦争と対テロ・アフガン戦争に大きな違いがあったからだ。それを以前、記事に書いたのだが、私としては常識的なことだと思っていたのだが、意外に、このどちらも集団的自衛権の発動による戦争だと捉える方が多かった。そう書いている新聞もあるから、影響を受けているかもしれない。ということで、少し詳しく書いておきたい。

 対テロ・アフガン戦争の方が時期が近いから、覚えておられる方が多いだろう。二〇〇一年九月一一日、いわゆる同時多発テロ事件が発生した。国連は翌日に安保理を開催し、事件解決への努力を開始する。この日の安保理決議(一二六八)は、加盟国が「個別的及び集団的自衛の固有の権利」をもっていることに言及しつつ、「テロの実行犯、組織者、支援者を法にもとづいて処罰すること」を表明し、国連が「あらゆる必要な措置をとる」ことを決めたものであった。そして、国連が「ひきつづきこの問題にかかわる」ことを表明したのである。

 国連安保理は、さらに九月末の決議(一三七三)のなかで、自衛権(個別的と集団的と両方)を再確認するとともに、「国連憲章第七章のもとに行動」することを決定した。憲章第七章は、国連による経済制裁を実施するとともに、それでは不十分な場合に軍事制裁を可能にする条項である。実際に安保理は、タリバン政権に容疑者の引き渡しを求め、それが実現しないからということで経済制裁を開始した。90年代以降の事例から推測すると、そうやって経済制裁で容疑者が引き渡されない場合、軍事制裁に乗りだすことになっただろうと思われる。その場合は、加盟国に対して「あらゆる必要な措置をとることを認める」と決議するのが通例であった。

 ところがアメリカは、経済制裁を開始してまだまもない時期に、その成果がでるのかどうかも分からないのに、個別的自衛権によって武力行使する道を選んだのである。そして、NATOが集団的自衛権の発動を決定し、それに追随したのである。

 だからこの戦争は、どういう角度からみても、国連決議による正当性のない戦争であった。(続)