2013年9月26日

 安倍さんがアメリカに行って、いろいろ発言している。そのなかに、日本は積極平和主義の国になるのだという言葉があった。

 これって、基本的な概念は、90年代以降、改憲派から持ち出されたものと同じである。日本周辺にも世界にも不埒ものがたくさんいて、ただ日本だけが攻められなければいいという立場は間違いだ、世界の紛争の解決のため日本は積極的な役割を果たすべきだというのが、この概念の出発点だろう。そこから、1国平和主義の憲法を変えようという結論になるわけだ。

 怒られるかもしれないが、私も、以上にまとめたような範囲でいえば、あまり立場は変わらない。結論は違うのだけれどね。

 実際、世界では、戦争によって毎年50万の命が奪われていて、そのうちの9割が女性と子どもだと聞けば、誰だってほおかむりすることはできないだろう。侵略して他国の人の命を奪う国があれば、それを諫めるために何らかの行動をとらなければならないというのが、普通の感覚だと思う。

 そして、日本国憲法は、まさにそういう立場に立っている。前文の「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたい」という願い、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有する」という宣言などはその象徴である。そして前文は、「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う」としているのであるから、世界の平和、専制の除去等のために力を尽くすのが憲法の立場であることは、あまりにも明らかである。

 ところが、安倍さんの「積極平和主義」なるものは、こういうものとはまったく異なる。いや、軍事力中心か軍事力否定か、というレベルの話ではない。軍事力による平和ということを批判しないという立場から見ても、安倍さんの立場は異なる。

 だって、集団的自衛権の議論でも分かるように、安倍さんが積極性を発揮しているのは、アメリカの艦船が攻撃されたときにどうするとか、アメリカに向かうミサイルを撃ち落とすべきかどうかとか、要するにアメリカだけは守りたいということなのである。

 いま焦点のシリア問題をみても、シリアの人びとが苦悩のただ中にいるもとで、それをどう助けるのかという視点で、多くの国が努力している。軍事力を使うかどうかについていろいろな議論はあるが、少なくとも現在、別の方法で化学兵器の使用を止めさせられるのではないかと、議論がされている。米ロ間での交渉もあるし、国連安保理での議論もある。

 冷戦が終わり、その後、戦争と平和をめぐって、国際社会はいろいろな体験をしてきた。ソマリア問題をはじめ国連の失敗もあったし、現在のアフガニスタンにみるアメリカの失敗もあった。そういう経験を通じて、安全保障をどういう枠組みで議論するのかということでは、昔といまは大きく変わっているのである。

 ところが安倍さんの頭のなかには、そういう多様性は存在しない。存在するのはアメリカだけなのだ。われわれは、毎日、とっても古くさい思想を見せられている。

 一国平和主義って、改憲派が護憲派を攻撃する言葉だった。だけど、安倍さんは「積極平和主義」というのでなく、せいぜい「二国平和主義」なのだ。一国が二国へと倍になっただけで、質的には同じものだと考える。