2013年10月31日

 先日、神戸女学院大学の石川康宏ゼミに参加させていただいた。3年生のゼミが、先月だったか、福島に行って、いろいろ見聞を深めてきたのだ。それを『女子大生 原発被災地ふくしまを行く』という本にまとめようという企画があって、その関連だ。

 その日は、福島を訪れた結果についての感想を出し合い、議論するための座談会だった。とってもいい座談会でした。

 ほとんどの方が言っていたのは、やはり女子大生ということもあるのだろうが、福島へ行くことの不安である。本人もそうだったのだろうが、主に親御さんだ。

 お父さんのなかには、「福島に住んでいる人もいるわけだし、ちょっとの期間行ったからといって、なんともない」と言う人もいたらしい。だけど、母親の多くは心配をしていたようだった。そうだろうね。

 ゼミ生だって、行く前は、マスクとか手袋が必須の場所だと思っていた。だけど、行ってみたら、マスクをしている子どもなんていなくて、「へえ、そうなのか」と思ったわけである。

 また、これまで福島の桃なんて、まったく口にすることはなかったわけだが、農家が基準値以下のものをつくるためにどんなに努力しているかを知って、食べてみようかと決意した。そして、食べてみたら、むちゃくちゃおいしくて、パクパクとということになったそうである。

 いや、もちろん、福島のなかには、行けない場所もあるし、イノシシをはじめ食べてはいけないものもあるのだ。どんなに努力しても帰還できない場所もでてくるだろう。

 また、女子大生が訪問した場所は、多くの人が住んでいる場所なのだが、それでもいろいろなことに気を遣って暮らさなければならない。だけど、そうやって暮らせば、ホールボディーカウンターで調べても、被曝していないという結果になっている(いまのところ)。

 だから、大事なことは、「福島はこうなっている」「福島には人は住めない」「福島は安全だ」と、なんにせよ福島をひとくくりにすることはできないということだ。多様性があるわけだ。

 そういう現実を考慮に入れないで、「福島は……」と語ることはできない。ただ、多様性のなかのどこにいるのであれ、福島の人たちが被害者であるという点においては、ひとくくりに語れることはできると思う。

 女子大生たちが、そんな貴重な体験をした。それをできるだけ多くの人に伝えるためにも、この本を成功させたいと感じた。

2013年10月30日

 この政府のやり方のもう一つの問題は、世界の平和という大問題に対する考え方のゆがみである。侵略された国がそこにあるのに、日本が動くのは、日本の存立がかかった場合だけという考え方である。

 だって、侵略された国があるなら、それが地球のどこにある国であれ、助けるのが当然だろう。いや、何ができるかという点では、地理的な制約もある。しかし、侵略されて困っているという点では、日本に近いかどうかは関係ない。それなのに、それにほおかむりしていいのか。

 安倍さんの「積極的平和主義」というのは、その程度のものなのだろうか。自国のことしか考えない「一国平和主義」がおかしいといって、「積極的」にやろうというのが建前だったはずだ。

 もしかしたら、この問題は、集団的自衛権を推進する勢力の矛盾をつくうえで、絶好の論点になるかもしれない。

 彼らは、「そこに侵略された国があるのに助けないでいいのか」と言って、集団的自衛権の行使を迫るわけである。その論理は、単体のかたちだけでみれば、反論できるものではない。人の心を揺さぶるのだ。

 ところが彼らの本音は、そういうところにない。助けたいのはアメリカだけなのだ。だから、地球の裏側まで行ってしまって、その間にアメリカが困るような事態が起きて、アメリカを助けられないみたいになったら困ってしまう。

 だから、アメリカ限定にしたい。ところが、アメリカだけを対象に集団的自衛権を行使するっていうことになると、侵略された国はみんな助けてあげるという、人の心を揺すぶるような論理からは遠く離れてしまう。

 かくて、「日本の存立」という、まったく別の論理で押し通そうとする。これだったら、日本周辺の脅威に敏感な世論を惹きつけられるだろうというわけだ。

 しかし、そういう論理になると、「日本の存立」のための行動なら、それって集団的自衛権じゃないでしょということになる。個別的自衛権なのだ。

 そして、個別的自衛権なら、集団的自衛権の解釈を変える必要はなくなるのだ。そうじゃありませんか?

 この辺りを、一言で分かるようなスローガンみたくして、なんとか打ち出せないかな。考えるべき価値はあると思うけどね。

2013年10月29日

 まあ、予想していたことだけど、やはりね。昨日の毎日新聞は、1面トップで以下のように報道している。

 「政府が、憲法解釈で禁じられた集団的自衛権の行使について、「自国の存立」が損なわれる事態に限って容認する方向で検討していることが分かった」

 59年の砂川事件最高裁判決で、「わが国が自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛の措置をとりうる」としていることに着目したそうだ。そして、個別的自衛権はそのようなものだが、集団的自衛権の中にも「わが国を防衛するために必要最小限度の範囲」のものがあるとして、解釈改憲の論理に仕立て上げるということである。

 いやはや。支離滅裂。

 この間の議論を聞いていて、おそらくそういうことにするのだろうとは思っていた。集団的自衛権というのは、地球のどこで侵略が起きても、侵略された国を守りにいくというのが、もともとの建前である。だから、高見沢さんが正直に言ったように、地球の裏側まで行くのが普通なのだ。ところが、それは評判が悪いものだから、地理的にも日本の近くに限定し、想定する事態も日本とかかわりのありそうなものを選ぶというわけである。

 これはおかしい。二重におかしい。

 だって、まず、日本周辺で日本の平和と安全に影響を及ぼす事態で何をするのかは、すでに決まっている。賛否は別にして、「周辺事態に際して我が国の平和及び安全を確保するための措置に関する法律」がある。この「周辺事態」って、「そのまま放置すれば、日本に対する直接の武力攻撃に至るおそれのある事態等、日本周辺の地域における日本の平和及び安全に重要な影響を与える事態」だと定義されている。

 ということは、「わが国を防衛するために必要最小限度の範囲」だから、この法律をつくったのだろう。しかもこの法律、まだ一度も発動されていないわけで、現実的な必要性に疑問符がついているのに、なぜ憲法解釈を変えてまで別の法律をつくるのか、まったく理解不能である。

 アメリカは、この法律をつくるため、いろいろな圧力をかけてきた。それに満足して、いま、何か求めているわけではない。だって、侵略の過去をもつ日本には後方で支援するのにとどめておかないと、かつて侵略した国の領土、領海、領空まで自衛隊がやってくると、相手国の戦意が高揚してしまって、アメリカが困るわけだから。(続)

2013年10月28日

 ボヤッと聞いているからなのか、どうも論理がつながらない。日本国内と海外との違いがあるとはいえ、共通の問題のはずなのに。

 先週、一方の日本国内では政府が秘密保護法案の閣議決定をしたことが、重要なニュースとして流れた。他方、海外では、アメリカ政府がドイツのメルケル首相の電話を盗聴していたということが、最重要のニュースだった。

 同じように秘密が問題になっているわけだが、そのつながりが、どうもつかめない。というか、つながりはないのか?

 日本政府が秘密保護法をつくりたいのは、アメリカとの軍事協力を強めようとしているわけだが、そのためには日本の秘密保護の体制に懸念があるから改善せよと、アメリカから求められているからである。アメリカは、テロリストの情報なんかを日本に伝えて、それが漏れたら困るわけだ。だから、日本もドイツなどNATO諸国並にならないとダメだということだ。日本を信用していないのである。

 ところがそのアメリカは、じゃあ、ドイツとかを信用しているかというと、そうではない。そのことが、今回、分かったことだ。メルケルは同盟国のふりをしながらテロリストに関する情報を隠しているのだろう、正面から聞いても答えないだろうから盗聴してやるぞ──それがアメリカの態度だということである。

 つまり、アメリカが同盟国を信用しないのは、秘密保護体制が万全かどうかには関わりないということだ。そして、そんなに不信感を抱いている国に対して、アメリカは、大事な情報を伝えないだろう。秘密保護法があったって、大事な情報を漏らすことはないのだろう。

 9.11テロがあって、アメリカがトラウマになっていることは理解する。でも、アメリカはその結果、イスラム社会からもどんどん敵意で囲まれるようになっただけでなく、同盟国の不信さえ招いているわけだ。いつまでもこんなことをしていては、同盟国に真剣に守ってもらうことはできないだろうし、ますますテロに弱い国になってしまうだろう。

 だから、いまアメリカの同盟国に求められるのは、そのトラウマを解いてあげることである。ところが安倍さんは、アメリカに信用されたくって仕方がないので、アメリカが秘密保護のためには同盟国さえ恫喝したりすることを理解するのだ。それって、トラウマをどんどん深めることにしかならないだろう。同盟国なら、もっとやるべきことがあるだろうにね。
 

2013年10月25日

 本日、仕事で使っていたインデザイン(本をつくるためのソフトです)が反乱を起こし、パニック状態に。ようやく回復したんですが、ブログを書くのを忘れてました。ということで、安直に、私の本の書評を紹介します。

 一つは「ふぇみん」に載ったもの。『憲法九条の軍事戦略』が対象です。「ふぇみん」って、いろいろ複雑な歴史的経過があるんですが、伝統ある婦人団体の機関紙です。書評の内容は以下の通りですが、私の言いたいことを正確に分かってくれています。

 九条と軍事力は矛盾すると言われるが、「九条も防衛も」というのが世論調査からみた国民多数の選択だ。「制約なき軍事への恐れ」と「完全な非武装への不安」という、ごく「常識的な」思い。
 いわゆる護憲派が軍事力を全否定するならば、「軍事による安心」を求める人々にとっての選択肢は、改憲派の日米安保強化路線しかなくなると著者は言う。純粋な護憲が、かえって改憲や安保強化を招くという力学だ。
 ひとまず矛盾を肯定し、九条の「制約」を生かした軍事戦略を打ち立てられれば、国民多数の思いを満たしつつ、日米安保に引きずられない、日本独自の立ち位置が可能になるというのが著者の狙いだ。逆にそうした段階を経ずして、対米自立も、非武装実現への道も難しいのではないか?
 日本の「専守防衛」には、「装備の最小化」と「集団的自衛権の放棄」という九条が導く特異性があるという。それらを生かした軍事戦略とは? 護憲派必読の書。(道)

 もう一つは、「通販生活」です。秋冬号に、『集団的自衛権の深層』の書評が載っています。以下の通りです。

 安倍政権が集団的自衛権の行使容認に前のめりだ。内閣官房参与の谷内正太郎氏は講演会で「国家の品格の問題だ。友人に助けられても自分は助けないというのは、国家として恥ずかしいことだ」と述べている。だが、戦後史を振り返れば、集団的自衛権は「国家の品格」に疑問を投げかけるかたちで行使されてきた。そのことを本書は教えてくれる。 
 冷戦時代のソ連によるハンガリーやチェコスロバキア、アフガニスタンへの軍事侵攻は、ソ連が各国政府から要請を受けての決定として正当化された。こうした論理は1970年代の米国のベトナム戦争でも使われた。2000年のイラク戦争もしかり。
 米ソ対立時の日本では集団的自衛権の行使に関する議論が起こらなかった。現在、それを容認するよう憲法上の解釈を変えよとの声が政府内で強まっているのは、自衛隊が集団的自衛権を行使する、すなわち海を越えて相手国に侵攻できるだけの軍事力をつけたからだと著者は指摘する。米国が攻撃されたら、共同で迎撃するという想定ではない。自分たちに敵対する国を潰すための口実として使われるというのである。モラルなき何でもありの状態。集団的自衛権の議論を対米関係に限定されたものから、グローバル平和主義へと転換せよという提言、日本の課題として重く受け止めたい。(評者/助田好人)