2016年5月17日

 昨日は午後1時過ぎに東京着。まずは工藤晃さんの本を出すための作業の相談である。

 本の母体となるのは、先月の東京学習会議主催の講演。まだタイトルは付けていないが、私としては『マルクスならいまの世界経済危機をどう論じるか』がお勧め。今年1月に出した聽濤弘さんの『マルクスならいまの世界をどう論じるか』のシリーズのようなものだから。これに続いて、同じく共産党の役員だった方の『マルクスなら人口問題をどう論じるか』も出す予定がある。

 工藤さんの本はその講演だけではない。3分の2は工藤さんが書きためた「研究ノート」になる予定だ。『資本論』それ自体とか、方法論とか、イスラムや中東問題とか、この間に書き留めたメモが合計で20万字分ほどあって、工藤さんの問題意識とか発想の方法とかが分かって、たいへん興味深い。先月の講演の際、本にするには講演にプラスして何かがあればうれしいと希望したところ、お家に呼ばれてこのノートを渡されたのである。これはどうしても遺しておかねばならない。

 ただ、20万字もの、それも手書きのメモだから、活字にするのが簡単ではない。それでも、さすが工藤さんであって、工藤さんのメモを見てちゃんとどういう字か分かる能力のある人が何人かいるんだね。工藤さんから学ぼうという姿勢の人で、そういう仕事を率先して引き受けて来た人たちだ。そういう人たちに集まってもらい、やり方とかスケジュールとかを相談したのが昨日だった。

 10年ほど前だろうか、共産党のある雑誌の編集者が言っていた。校了直前に原稿に穴があくことがよくあり、その場合、共産党の幹部が仕事している部屋のあるエリアを回ると、一晩で2万字程度の論文を書く人が何人もいたそうだ。私も、共産党で仕事をしていた頃、幹部でも役員でもなかったが、ある雑誌の巻頭論文を常任幹部会委員の役にある方が書かないという事態が起こって、代わりに一晩で書き上げたことがある。まあ、それがある地区委員会では全赤旗日曜版読者分を増刷して配布されるなど共感を呼んだが、幹部のなかでは大問題になって私の退職につながったんだけどね。

 いまそういうものを書ける人が何人もいるのかは知らないけれど、そういう人のうちのかなりは退職し、理論的なものを書こうとすると、出版社が見つからないというのが現状である。そこでどういういわけか、共産党と組織的な関係があるわけでもない弊社の出番になってくる。

 理論活動なのだから、特定の「正しい」理論だけが出ていくというのはあってはならないことだ。そうではなく、様々な理論が、対等平等の立場で闘わされるというのが望ましい。

 判定をつけるのは理論の中身への共感であるべきで、メディアに理論を出せる権限があるかないかで日の目を見たり見なかったりすることのないようにならないと、本当の理論活動の活性化はないだろうと思う。そういう意味でも弊社の役割を自覚して、節度をもってがんばりたい。いまから福島。

2016年5月16日

 こういうタイトルの本を知り合いの編集者に「読め!」といわれ、贈呈までしてもらったので読んだ。著者は松本創さんといって、神戸新聞記者を経て、現在はフリーライターである。

 なぜ「読め!」といわれたのか、その理由は、本日からの東京出張で聞くことになるのかもしれない。サブタイトルに「大阪都構想とメディアの迷走」とある。それに示されるように、橋下徹をつくったメディアの責任をとことん追及したのが、本書の真骨頂といえよう。

 その全体をまとめるようなことはしないが、私にとって印象的だったのは、この本に出てくる朝日論説委員の稲垣えみ子さん(当時)の言葉だ。2013年5月3日、神戸で朝日新聞労組がこの問題を主題にしてシンポジウムを開いたそうだが、そこで稲垣さんが語っている内容。別の雑誌にも同じ内容の論考を寄せているそうで、著者の松本さんがそれを整理した文章があるので、それを引用する。タイトルは、「『世の中が見えていたのは橋下氏』朝日新聞大阪社会部デスクの嘆き」。

 「橋下のことを紙面で取り上げると、「朝日は橋下の宣伝機関か」という声と「なぜ橋下さんの足を引っ張るのか」という声、両極端な苦情が読者から多数届く。従来の「お上」対「庶民」の図式に当てはまらない橋下の報道に苦慮していたある日、府立高校の国歌斉唱条例でアンケートを取った。予想に反して賛成が圧倒的多数だった。リベラル・護憲を看板に良心的な世論をリードしてきたつもりが、振り返れば誰もいなかった。朝日的リベラルを世の9割がウソっぽいと感じている。世の中が見えていたのは橋下の方だった。従来のリベラル層をも既得権益と見なして攻撃してくる橋下に負けないよう、新聞の発想も「グレート・リセット」が必要ではないか──」

 そうだと思うんです。リベラルって、世の中が見えていないところがある。国歌の斉唱を命じる条例だって、賛成が多数になるのは当たり前である。戦後すぐなら、こだわりをもった人がそれなりにいたのは事実だろう。しかし、そういう層はほとんど亡くなっていているし、サッカーとかで国歌を歌うのはあまりにも当然のことになっている。国旗・国歌法が圧倒的多数の賛成で成立してから、ずいぶん時間も立っている。そもそも当事者である教職員の労働組合だって、組合員に対して「国歌を斉唱するな」なんて方針を提起していないだろう(どうなんですか?)。

 それでも強制に反対することはあっていい。だけど、その場合はあくまで、ごく少数の権利を擁護していて、世論のなかでは孤立するという自覚が必要なんだと思う。しかもその場合も、国歌を斉唱すべきだという立場への敬意というか尊重というか、それがにじみ出なければならないと感じる。国歌斉唱は悪で斉唱しない人が善という立場で接近すると、国民多数を敵にまわすのである。

 護憲改憲問題もそうだ。改憲は悪で、改憲を願う人は戦争をしたい人なんて考えていると、多くの人を敵にまわすことになる。いませっかく、安倍さんが何をするか分からない不安があって、改憲派の人が安倍政権のもとでの改憲にちゅうちょしはじめているのに、改憲派をばっさりと切り捨てるやり方は、味方になる人を失うことになる。

 ただし、稲垣さんが提唱するように、新聞が「グレート・リセット」できるかというと、ちょっと懐疑的。最近の某新聞を見ると、一層そう感じる。メディアが情けないから世論がダメというのでは、いつまで経っても変わらない。メディアが情けなくても前進するにはどうするかという問題意識を持ちつづけたい。

2016年5月12日

 オバマ大統領の広島訪問をめぐっては、誰の反応も似たようなものになっている。歓迎する、同時にさらに前進を望む、という感じだろうか。私だってあまり変わらない。

 原爆投下に対する謝罪を求めていくのは当然だと思う。だけど、いつどのようなタイミングでそれがなされるべきなのか、いまじゃなければダメなのかということは、難しい問題である。

 中国や韓国からはは、そもそも日本が被害者の側に回ることは許せないという声があがっているが、それはズレた感情だと思う。無差別大量殺戮はどの国がやろうとも許されないという基準を確立しないと、自分たちが日本に謝罪を求める道理もなくなっていく。

 ただ、私がこの問題を難しいと感じたのは、長崎の原爆資料館で被爆者の証言ビデオを見たときだった。被爆者といっても、オーストラリアの捕虜で、長崎の収容所に入れられているときに被爆した人である。

 いろいろ被爆時の様子を証言していって、しかし最後にこの方がつぶやいたのは、日本は原爆を投下されて当然だというものだった。本人は被爆者なのである。自分の体に障害をもたらしたアメリカによる原爆投下を批判するどころか、逆にそのアメリカを支持するのである。謝罪を求めることの対極にいる被爆者が存在する。

 被爆者にそれほどのことを言わせる日本への感情の重さというか、深さというか、それを考えると思考が停止する感じだった。だからオバマさんが、日本と戦い、傷ついた人々の感情をふまえながら判断するというのは、理解できることである。

 もちろんオバマさん、プラハ演説の時は輝いていたが、輝きはそのまま維持されているわけではない。ただ、この間、段階的にアメリカ政府代表のレベルを上げながらを広島に派遣し、世論を見計らいながら自分の訪問を実現させるというやり方は、すごい執念を感じさせる。立派だなと思う。

 次がクリントンさんになるにせよ、あるいはトランプさんになったら絶望的だが、オバマさんと同じことは望めまい。だったら、オバマさんの広島訪問を強い記憶が残るようなものとして記録し、この課題をさらに前へと進める大統領が現れるまで記憶を継続させることが求められるのかもしれない。

 そういえば、一年ほど前、オバマさんの広島訪問を想定して、「オバマさんへの手紙」という本を企画しようとしていたんだ。忙しくて手が着かなかったんだけど、ちゃんとやっていれば、売れたかもしれないなあ。残念。

2016年5月11日

 忙しくしている間に、どんどん近づいてきます。この選挙がアベ政治を退場させる上で大事だと考え、昨年6月から「さよなら安倍政権」シリーズの刊行を開始しました。

 本気でさよならするためには、左翼のなかでもいろいろなバリエーションのある人の力が必要だし、保守的な人々の力も借りる必要があります。このシリーズの著者には、そういう人々に登場していただきました。

 シリーズを開始した時は、安倍政権に対抗するために、そうやって力を集めるということは現実的な問題になっていませんでした。協力しあうこともあるだろうが、選挙はそれぞれ独自にやろうという感じが主流でした。

 だけど、夏を過ぎて、そこが変わりましたよね。一貫したコンセプトでこのシリーズを刊行してきて、本当に良かったと思います。

 刊行開始から1年が経つ今年の6月、最後の3冊を刊行して、選挙に向かう体制を万全なものにします(その予定です)。そのため、書店向けに、A3裏表の巨大チラシをつくりました。画像は、そのうちの表紙部分です。さあ、がんばらなくちゃ。

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2016年5月10日

 来週の金曜日(20日)、午後5時からです。この間、衆議院第2議員会館でしたが、今回は参議院議員会館ですので、お間違いのないようにお願いします。参加の申込みは、ここからです。

 「新安保法制の予想される発動事例の検証」という枠組みで、この間、南シナ海問題、南スーダン問題を議論してきました。今回のシンポジウムのテーマは、「北朝鮮は脅威なのか、どう対応すべきか」です。

 ゲストはお二人。拉致問題は蓮池透さんに語ってもらいます。そして、弾道ミサイル防衛と邦人救出という、北朝鮮を考える上で欠かせない問題は、元陸将の方が報告します。弾道ミサイル防衛問題は専門的で、若干難しくなるとのことですが、それを望んでいるという方も多いでしょう。それらを受けて、「自衛隊を活かす会」の代表である柳澤さんが報告します。

 それにしても、北朝鮮の労働党大会、無茶苦茶でしたね。「世界の非核化に言及した」っていう報道をしたメディアもありましたが、北朝鮮にミスリードされたと思います。だって、自分を核保有国だと一方的に宣言した上で、非核化なんて考えてもいない現在の核保有国が核を廃棄するなら自分も廃棄するということですから、他の核保有国と同様、非核化なんて考えてもいないということなんです。

 そのメディアがピョンヤンまで行ったのに、ちゃんと取材させなかったというか、北朝鮮が報道させたいところだけを引き回したのも、無茶苦茶でした。だけど、それが北朝鮮のやり方なんですから、ちゃんとしたメディアなら、想定しておくべきでした。私も30年ほど前に国際会議でピョンヤンに行きましたが、会議の合間の「小旅行」には誘われても参加しませんでした。実際、行った人にあとで聞いたら、金日成の像を見に行かされただけでしたし。

 経済分野では何の成果も誇ることができず、「自分たちで自分の暮らしは守りなさい」という路線。核・ミサイル問題では実験の失敗もひた隠しにして、核大国になったかのように自己顕示する。

 不満が高まっているだろうに倒れない体制って、何だろうかと思っちゃいますよね。そんなことを言えば、戦前の日本の体制だって、自分では倒せなかったわけで、人のことは言えないかもしれませんが。

 ただ、そういう国ですので、不測の事態が起こりうることは否定できないので、何を準備しておくのか、何はしないでいいのか、ちゃんと議論しておくべきだとは思います。脅威をどう判断するかは別にして、何も備えがないというのは、国民の意識からかけ離れてもいますし、実際にもそんな立場は許されないと思います。

 終了後も、語り合う場を設けますので、ぞうぞふるってご参加下さい。