2017年12月14日

 本日、東京新聞のインタビューを受けた。来年、改憲論議が高まるだろうからということで、特集の連載をするためにいろいろな人に取材をしてまわっているとのこと。その一人に選んでもらって、素直にうれしい。まあ、「改憲的護憲論」を唱えているのは私だけなので、他の人には取材できないよな。来年は(も)忙しくなりそうだ。

 ただ、文化人類学者の船曳建夫氏(東大教授)が、かつて毎日新聞(2004年7月8日付)で主張したことがあるらしい。以下のようなものだったという。

 「例えば憲法9条が国際紛争を解決する手段としての武力行使を放棄している以上、自衛隊のインド洋やイラクへの派遣は無理があります。だからといって憲法を現実に合わせるべきでしょうか。憲法はその国が目指すべき姿を表す原則だと考えます。現実というものは、原則に反せざるをえない側面がある。逆に原則を現実に合わせたら、どうしようもなくなる。
 例えば、男女の平等が現実には完全でないとしても、不平等を認めるように原則を直すことはしない。いかに平等を実現するかを考えなければならない。差別の問題や生存権など現実と憲法が一致していないことは9条以外にもあるが、未来志向の正しい原則は直す必要はない。」

 この限りでは、私も同意する。ただ、「憲法九条のもとでの自衛隊」の問題をどう位置づけ直すかという点で、もっと深い探究が必要だというのが、私の考え方の核心にある。

 本日も聞かれたのだが、「憲法九条のもとでの自衛隊」というと、「加憲と違わないと思われないか」と危惧する方もいる。だから、「軍事的価値はいっさい認めないと明確にしたほうが議論しやすい」というわけである。

 最近、護憲派のなかで、そういう認識が増えているのを感じる。ここ数年、私を7回ほど講演に呼んでくれた9条の会で、私の考え方をよく理解してくれていると思っていたら、最近の講演会では、「それではダメなのではないか」という意見が初めて出てきた。別の場でも、「純粋な護憲論が大事」という声を聞いた。

 なんとなく事情は分かる。憲法に「自衛隊」を明記することに反対するわけだから、自衛隊を認めてしまっては、その後の議論にもっていけないと感じるのだろう。

 確かに純な論理のほうが「議論しやすい」だろう。でも、その場合の議論というのは、仲間内ではやりやすいということで、自衛隊をリスペクトしている圧倒的多数には反発されるということだ。そういう人たちを「敵」に回すような議論のほうがやりやすいということになると。結果は目に見えているように思える。

 で、「改憲的護憲論」は、明日発売です。よろしくお願いします。