2018年4月4日

 この論評を読んでいると、この論者もまた、改憲か護憲かの二項対立の枠内で思考しているように思える。それこそ私がもっとも避けたいと思っている思考方法である。例えば、以下のような記述がある。

 「ちなみに、松竹氏は現在の自衛隊に対する「国民的な支持」を「憲法に明記されていない」ことの賜のように評しているが、自衛隊はその正統性に疑念をもたれてきたが故に、国民的な支持を得たと言っているようにも聞こえる。現状維持のための倒錯したレトリックと言うほかない」

 いや、批判していただいていいのである。私が改憲、加憲を批判するように、その立場から私を批判するのは当然であろう。

 しかし、大事だと思うのは、この問題の複雑さへの自覚である。そう簡単に割り切れる問題ではないからこそ、圧倒的多数の中間層は迷っているわけである。

 憲法に自衛隊が明記されたとして、多くの自衛官が歓迎するのは当然のことである。この号の別の場所に元陸上幕僚長の火箱さんが「なぜ憲法に自衛隊を明記すべきなのか」というインタビューに答えておられて、そこにも共感する部分が多い。私は自衛隊に対する国民の支持、敬意が増すことを心から喜ぶ立場だ。

 けれども、自衛官のなかでさえ、ことはそう単純ではない。私は現在、元自衛隊幹部にインタビューをしてまわっていて、もちろん加憲に賛成で、安倍さんへの感謝を表明する元陸将の方もいる。しかし、その同じ方が、加憲をめぐって国民が分断されることになれば、せっかく国民的な支持を獲得した自衛隊に関して世論が分断されることになり、歓迎できるようなものではないと表明するのである。そんなことになるなら現行憲法のまま法整備をするというやり方が望ましいと言うのである。

 私の論理は、確かに「倒錯」しているかもしれない。私はよく「どっちつかずだね」とか「すっぱりした論理がない」と言われる。その通りだ。だがそれは、倒錯した現実というか、倒錯した自衛官、国民の感情の反映なのである。本のなかでも改憲が45点で護憲が55点と書いているけれど、それが現実の国民意識なのだと思う。

 それを切って捨てるようでは、論者は気持ちがいいかもしれないし、加憲の支持者からは拍手喝采を浴びるだろうが、「明日への選択」がねらう中間層はどうなのだろうか。「一方的でコワい人たち」と思われてしまわないだろうか。

 論争相手の心配をしても仕方がないかもしれないけれど、結論を先行させて違う考え方には悪罵を投げかけるというのは、決して生産的な結果を生み出さない(どちら側にもそういう人はいるのだが)。私は、この雑誌の関係者とも誠実に議論し、生産的な結論を得たいが故に、こういう手法はとってほしくないと考える。(続)