2018年4月19日

 東京でお昼過ぎまで仕事をして、ようやく戻ってきました。いまさら新しい記事を書く余裕がないので、某紙に寄稿したものをそのままアップします。

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 「破棄した」とされていたイラクに派遣された自衛隊の日報に「戦闘」の文字が記されていたことが報ぜられた。南スーダンPKOに派遣された自衛隊の日報と同じである。自衛隊が派遣されているのは「非戦闘地域」だという政府の弁明が、もろくも崩れ去ったのだ。

 この問題は、巷間言われているように、もちろんシビリアンコントロールの問題でもある。日報があるなら出せという稲田防衛大臣(当時)の指示が無視されていたわけだからそれは間違いない。しかし、問題はもっと大きいように思う。

 思い起こされるのは、実際には「戦争」を開始しながら、政府も軍も「戦争ではない」と言い張った過去の事例である。戦争を「事変」だと言いくるめた満州事変、支那事変のことだ。

 満州事変などの場合、「戦争」と言ってしまうと中立法が適用されることになり、アメリカが中立を宣言すると原油が輸入できなくなるという懸念などがそうさせた。戦争であることは自覚していたが、より効果的に戦争しようとする思惑が働いたわけである。

 イラクや南スーダンも構図は同じである。政府は現地がPKO法の規定では自衛隊を派遣できない戦闘地域であることは重々承知していたのだ。しかし、戦闘地域と認めてしまえば、法律の規定上も国民世論上も自衛隊は派遣できない。現地の実態よりも政治的思惑を優先させ、戦争に参加するためのハードルを下げたのである。

 現地の自衛隊は、法律の規定からして、「戦闘地域」の用語を使ってはいけないと自覚していたはずだ。それなのになぜ日報にこの用語が出て来るかといえば、無責任に派遣を決定する政府とは異なり、実際に任務を遂行しようと思えば、実情をリアルにつかんでおくことが不可欠だからだ。「非戦闘地域」という建前で任務を遂行していては、自分の身さえ危うくなるからである。

 本来なら、自衛隊にとって日報はオモテに出したい性格のものではないだろうか。そんな危険な中で任務を遂行していることを国民に知ってもらうことは、自分たちの誇りにつながるからだ。政府から与えられた任務は遂行しなければならないという使命感と、同時に自分のいのちは守り抜きたいという当然の気持ちと、その両方を貫こうとすれば、現場の実情を隠そうという気持ちにはならないはずだ。

 けれども他方で、その真実をオモテに出してしまっては、事実上、「戦闘地域ではない」と説明している政府を批判することになる。「政治的活動に関与せず」(服務の宣誓)が義務となっている自衛官にそれはできない。だから自衛隊は、自分の命にかかわることでも、政府にとって都合の悪いことは隠そうとするのである。

 これはシビリアンコントロールの問題ではない。自衛隊をコントロールするべきシビリアン(政府)が間違っている問題である。自衛隊を海外に派遣するために政府がウソをつくから生じる問題なのだ。自衛隊員の命よりも安倍政権の延命が大事だということから生まれているのである。この構図は、刑事訴追されても安倍政権を守ろうとする財務省・国税庁の佐川氏問題と同じであるが、その結果が自衛隊員の命と、日本の戦争への関与にかかわることだけに、より重大である。

 「戦争ではない」とする建前から、自衛官が武器を使用して民間人を殺傷しても、国の責任は免れ、現行法では自衛官個々の責任になる。「戦争ではない」ので自衛官は捕虜にもなれない。こうして政府がウソで自衛官を追い詰めていたら、それこそいつか来た道の再来となり、本当にシビリアンコントロールの問題になってくるかもしれないのではないか。