2018年7月20日

 「対米従属の軍隊」という本質規定と並んで、ずっと言われてきているのがこれである。そういう規定をする人の間では、「本質は変えられものではない」という認識と一体になるものだから、廃止するしかないという結論になっていかざるをえない。

 しかし、前回の「対米従属の軍隊」と同じ論じ方になってしまうのだが、じゃあ、どうやって廃止するのかということだ。安倍首相に「対米従属の軍隊だから廃止せよ」と迫るのか、枝野さんに求めるのか。そんなことを主張する人が国民多数の支持を得て自衛隊を廃止する政権を確立できると思っているのか。あり得ないだろう。

 結局、「対米従属」「人民弾圧」を変えられない本質と規定してしまっては、袋小路に陥ることになるわけだ。せいぜい、「改革すべき問題点」という位置づけにしなければならないということだ。その程度だったら、野党間での協議くらいは出来るようになるかもしれない。

 それに、「対米従属」「人民弾圧」という問題点があるにしても、それをつくりだしているのは自衛隊ではなく政府である。自衛官に対してそういう物言いをすることが何をもたらしているかを、よくよく考えるべきである。

 何か月か前、幹部自衛官が国会議員に対して暴言を吐いたということで問題になった。もちろん私も暴言だと思う。処分が軽いと問題にする人もいるが、処分を決めるのは政府である。処分の軽さをもって、自衛隊や自衛官に暴走する本質があるかのように言うのはどうなのだろうか。

 戦後の日本では、現場の部隊、自衛官が護憲派の批判にさらされてきた。日本の人口の4割くらいに広がった革新自治体では、自衛隊が憲法違反だということを理由にして、20歳になった自衛官を成人式に呼ばないということも横行した。住所録には自衛隊の駐屯地の住所や電話番号を載せないという自治体さえあった。

 現在も、自衛隊に対して憲法違反だという批判がされている。憲法違反だけれど、いざという時には活用するから、命をかけてくれと言われている。

 別にそう言ってもいいと思う。しかし、そういう言い方をされている自衛官が、それをどう受けとめ、悩んでいるかくらいには、心を砕くべきだろう。

 自衛隊はそうやって何十年間、護憲派から批判されてきたけれど、大多数の自衛官は、それを黙って甘受してきた。政治に対してモノを言わないのが自衛隊のあり方だと隊内で教育され、忠実に守ってきた。自分を否定している憲法9条をどう思うかって聞かれても、退官後にさえ、意見を言う人は少ない。田母神さんのように時々、そこから外れる人が出てくるけれど、本当に少数なのだ。それなのに護憲派は、その少数のなかにこそ本質があるとして批判を強める。

 自衛隊に対しては激しい批判をするけれども、自衛官は自分の意見さえ言ってはいけないという言論空間をつくってきたのは護憲派である。それでいいのかもしれない。しかし、自衛官を傷つけているという程度の自覚をもったものの言い方をできるようにならなければ、いつまで経っても国民の共感を得られるようにはならないだろう。