2018年10月5日

三、拉致・人道問題の分野で(2004.7記)

 次に拉致問題です。この問題は、解決に向けた動きがあるとはいえ、日朝間の水面下の交渉の内容などわからないことも少なくありません。しかし、日本共産党の立場は、問題の一刻もはやい解決、全面的な解決をめざす国民の願いに合致したものだといえます。

<人道問題としてとらえ先駆的な追及>

 先ほど、拉致問題での橋本参議院議員の追及にふれましたが、この先駆的な意味についても、私たちだけが勝手に言っていることではありません。高崎さんの『検証 日朝交渉」でも、次のように書かれています。

「なお、拉致疑惑問題は88年3月に国会で共産党の橋本敦参議院議員が質問し、梶山 静六国家公安委員長の『北朝鮮の疑いが濃厚』という政府答弁があったが、この問題を日朝交渉に持ち込んで解決できるという考えは、いまだ(社会党の)田辺・(自民党の)金丸の頭には浮かばなかった」

 橋本議員の質問は、翌日の「赤旗」は一面で取り上げました。しかし、他の一般紙はまともにとりあげず、この時点でもマスコミはあまり大きな問題だとはみなしていませんでした。私たちが早くからこの問題を重視したのは、一つには、長年にわたる北朝鮮の覇権主義との闘争をつうじて、拉致された日本人に教育されたという金賢姫の供述を、それなりの根拠があると受けとめられたことがあります。少なくとも北朝鮮がかかわったという疑惑を否定することはできなかった。同時に、まだ社会の関心を集めてはいなかったけれども、橋本議員がのべているように、「家族の不安と苦痛は筆舌に尽くし難いもの」であり、「国民の人命と基本的人権にかかわる重大な問題」という認識を、日本共産党がもっていたからでもあります。

 昨年の総選挙の際、日本共産党の候補者にたいして、拉致問題でアンケートが送られてきました。質問の一つに、「北朝鮮による日本人拉致をテロと認識するか」、というものがありました。私たちは、慎重に検討したうえで、「無法な暴力によって民間の人びとを無差別に誘拐して国外に連れ出し、その生命と安全を危険にさらす行為であり、テロの一種と認識している」と答えました。

 じつは、テロをどう定義するのかについては、まだ国際的に決着していないのです。しかし、少なくともこれまでの国連総会の議論によって、テロには二つの要素があることが確認されています。一つは、その目的が、政治的、経済的、社会的、宗教的等のものであることです。普通犯罪のように個人的な怨恨等をはらすことが目的ではないということです。もう一つは、その手段が、不特定の人びとを恐怖にさらすものだということです。普通犯罪であれば、怨恨をはらす相手も特定されますが、目的が政治的なものですから、相手は誰でもいいというところに、テロというものの特徴があります。北朝鮮による拉致事件は、この二つの要素をもっていると思います。

 このような性格のものだから、拉致問題は、あまりにも非人道的だということで、国民の心を揺さぶっているのです。拉致された人びとには、拉致される原因となるようなことは何もない、ただ北朝鮮の政治的な目的のために連れ出され、長期にわたって帰国できなかったわけですから、国民的な怒りが高まるのは当然なのです。

 日本共産党は、拉致問題をこうした性格をもったものとして位置づけてきたし、いまもそういう立場で全力をあげているわけです。拉致問題を軽く見るような主張には与することはできません。

<国内でも、国際的にも、団結した力が必要>

 では、拉致問題をどうやって全面的に解決するのか、という問題です。死亡したと北朝鮮が発表している人びとにかかわる真相究明と責任者の処罰、被害者に対する謝罪と補償など、解決すべき問題はたくさんあります。 この問題では、対話だけじゃなく圧力も必要だ、制裁が必要だという議論があり、 国会では、経済制裁の一環として、日本国内から北朝鮮への送金禁止を可能にする外 国為替法改正がおこなわれました。ご存知のように日本共産党はこれに反対しまし た。少なくない方から、じゃあ共産党はどんな手段で解決してくれるのだ、対話だけ でできると考えているのか、という電話もかかってきました。

 私たちが、拉致問題を解決する手段として不可欠だと考えていることは、一言でいえば、日朝平壌宣言を基礎にして、道理の力によって国民の団結した力をつくり、国際的にも強固な連帯の力をつくり、それを背景にして北朝鮮に解決を迫っていくということです。

 この観点から見て、私は、外為法改正については、圧力にもならないところに、大きな問題があると思います。なぜなら、圧力となるうえで必要な国際的な結束を、根底からくつがえしかねないからです

 いま、北朝鮮の諸問題をめぐって6カ国協議が開催されており、最初の協議で 「平和的解決のプロセスの中で、状況を悪化させる行動をとらない」ことが合意されています。せっかく、問題を解決しようと各国が努力をしていて、その努力を実らせるため、少なくともその間は「状況を悪化させる行動をとらない」と約束しているのです。そのときに、約束に反する行動をとることになれば、当事国の団結、連帯にはひびが入りかねません。外為法を改正し、発動していくというのは、そういう危険性をもつものです。

 過去の事例を見ても、制裁が成功した事例、失敗した事例ともに存在しますが、その二つを分けるのは、結局は、国際的な連帯が保たれるかどうかという問題です。

 成功の例を一つあげると、88年に起きたロッカビー事件があります。これは、イギリスの空港を飛び立ったパンアメリカン航空機が爆破され、乗員乗客2百数十名が死亡した事件です。機体が落下したロッカビー村の住民10数人も亡くなりました。この事件では、イギリスの警察当局が捜査し、リビアの諜報機関員の犯行だと断定し、リビアに容疑者の引き渡しを要求しました。リビアがこれに応じず、舞台は国連安保理に移され、こんどは安保理が引き渡しを要求します。リビアが拒否し、国連は第一次の経済制裁をおこない、それでも拒否がつづいたので、第二次の制裁が実施されます。この経過のなかで、最終的には容疑者の引き渡しが実現し、裁判がおこなわれることになったのです。

 時間はかかったけれどもリビアが態度を変えたのは、やはり国際社会が団結して容疑者の引き渡しを迫ったからです。アラブ諸国も結束しました。

 一方、ロッカビー事件の2年前に、西ドイツのディスコで爆破事件があり、アメリカの海兵隊員多数が死傷したとき、アメリカはリビアの犯行だとして、リビア各地を空爆したことがあります。単独の軍事制裁です。しかしこのようなやり方は国際社会の支持を得られず、国連総会はアメリカの方を批判する決議を採択します。テロにかかわったかも知れないリビアの責任は、追及されないままに終わります。

 拉致問題に即して考えてみても、6カ国協議の当事者の賛成が得られる手段かどうかは、決定的な意味をもちます。これらの国の賛成が得られなければ、日本の対応は国際的な道理がないのだという宣伝がまかり通ることになり、否定的な結果を生みだしかねません。最近の自民党機関紙(4月6日)も、経済制裁という手段について、見出しで「国際社会の包囲網と合わせ、わが国独自の〝カード〟」と位置づけています。国際社会の「包囲網」の必要性は自民党も認めているのです。しかし、独自のカードということで持ち出した手段が、かえって国際社会の「包囲網」を壊しかねないのですから、そういうカードでなく、「包囲網」を徹底的に強めていくやり方をとるべきなのです。

<徹底して人道的立場に立ったとき共感を集める>

 同時に、私たちが考えなければならないのは、拉致という人道問題の解決を求める運動というのは、徹底して人道的な見地にたってこそ持続し、強固になり、発展するということです。

 たとえば日本の過去の清算の問題があります。日本が朝鮮半島を長きにわたって植民地支配し、朝鮮の人びとを強制連行したり、従軍慰安婦にしたり、強制的に名前を変えさせたりしました。日本もまた人道に反する罪を犯したわけです。ところが日本は、このような明白な事実があるのに、北朝鮮との間では、戦後60年近くたったいまでも、謝罪し、清算することをしていません。

 私は、この問題の解決は、日本人拉致問題を真剣に考えれば考えるほど、いっそう切実だと感じます。人道に反する罪が犯されたということへの怒り、悲しみというのは、その罪を犯したのがどの国かということに左右されるものではありません。真剣に人道問題を考えている人ならば、北朝鮮による人道犯罪は許せないが、日本によるものは同じようには問題にしない、ということにはならないのです。別の言い方をすれば、日本による人道犯罪を重く位置づけることによってこそ、北朝鮮による拉致問題を解決するための運動の大義も強固なものとなるのです。

 日本のなかでは、拉致問題の解決のためには、軍事力を使うことも考えるべきだ、日本が核保有することも選択肢だと主張する人びともいます。ここまでくると、人道問題への逆行になるのではないでしょうか。他の国の人のいのちを軽んじる人びとには、人道問題を語ったり、人道問題でのたたかいにくわわる資格はないと思います。

 覚えておられる方も多いでしょうが、いまから10年ほど前、北朝鮮をめぐる核危機が大きな問題となりました。アメリカは二個の空母機動部隊を派遣し、核兵器の使用も選択肢において軍事行動を準備しました。その時、在官米軍の司令官がアメリカの上院で証言しましたが、もし朝鮮半島で戦争が起きれば、100万人のいのちが失われるということが明らかになりました。そんな道に踏み出すなどということは、どんな理由があれ許されることではないし、人道の名で語ることではありません。

 日本共産党は、いまの北朝鮮をめぐる諸問題に対処するにあたって、「戦争も動乱も絶対に起こさせてはならない」ことを「決定的な大事な目標」だと位置づけています(パンフレット「どう考える北朝鮮問題」)。日本が過去の清算に取り組むことを 特別に重視しています。こうして、この地域のすべての人びとのいのちのこと、人道のことを真剣に考えている私たちの立場こそ、拉致問題を国民的にもさらに大きな問題とすることになります。周辺の諸国の人びとにも、「日本の運動はほんとうに人道問題を考えているのだ」という共感をひろげ、国際的な団結で拉致問題の解決を迫っていくものになると確信します。(続)

2018年10月4日

二、建設的な提案の分野で(2004.7記)

 同時に、私たちが確信にしなければならないのは、北朝鮮をめぐる問題をどう打開し、解決するのかについても、日本共産党が積極的な提案をおこなってきたことです。ただ覇権主義を批判し、それとたたかってきたというにとどまらず、建設的な提案をおこない、それを実らせてきたということです。

<外交ルートを開けと国会で提案する>

 この経緯と内容は、もう一つお配りしている資料に詳しくのべられています。不破議長の「どう考える北朝鮮問題」というパンフレットです。

 最初は、99年1月です。不破委員長(当時)が、国会の代表質問のなかで、北朝鮮との間で外交ルートを開けと提案しました。さらに同じ年の11月に同じく代表質問で提起したのは、無条件で交渉ルートを開いたうえで、日朝間のいろいろな問題を、拉致問題をふくめすべて交渉のテーブルにのせるべきだということでした。何かを解決したら交渉するというのでなく、前提条件なしに、すべての問題を話し合おうということです。

 この提案は、日朝間の非難合戦が、抜け道のない状況に陥っていただけに、重要な意義がありました。当時、98年秋に北朝鮮のテポドン発射があり、日本列島をこえるミサイルの発射が予告もなしにやられてということで、日本国内では、ミサイルがいまにも日本に撃ち込まれるような議論がありました。それに対抗して、北朝鮮のミサイル基地をたたくべきだという、軍事的な対抗措置も議論になっていた。一方、北朝鮮の側でも、日本が新ガイドラインをつくり、戦争法(周辺事態法)を成立させるということをうけ、日米が共同で攻めてこようとしていると、批判をつよめていました。お互いが、相手が攻めてくるからといって、軍事的な緊張の悪循環を招いていたのです。
 
 ところが、日朝間では、90年代初頭におこなわれた国交正常化交渉が決裂して以来、そもそも交渉の場が存在していませんでした。アメリカや韓国は、日本と同様、北朝鮮との国交は正常化していませんが、それぞれ交渉ルートはあります。だから、ミサイルが発射されれば、そのミサイル問題をどうするのかが両国間で議論になるの に、日朝間だけは非難と軍事的対応の応酬だったのです。

 私も当時、国交が途絶えていた国同士が、それを回復する実例を研究したりしました。日本にかかわるもので一つだけ紹介すると、日本と韓国の国交についても、1951年に交渉が開始されましたが、正常化したのは65年のことです。その間、日本が植民地支配を正当化する発言をして交渉が決裂したり、韓国が日本の漁船を拿捕し、乗員を拉致したため関係が冷え込んだりしました。しかし、在日韓国人問題をあつかう必要があったためですが、韓国は、交渉が開始される前の49年1月から、駐日代表部をおいていたのです。そして、日韓の正規の交渉が決裂している間も、駐日代表部と日本政府は、交渉をどうやって再開するかなどで協議をしていたのです。

 交渉ルートをしっかりともっているということは、このように大事な問題です。緊張が高まっているときこそ、互いに批判しあうこともあるでしょうが、どう打開するかを話し合う場は必要なのです。ここに日本共産党の提唱の意味がありました。

<超党派代表団から日朝交渉の再開へ>

 国会での2度目の代表質問から2週間ほど後ですが、社民党の村山元首相が、志位書記局長(当時)を訪ねてこられました。超党派の代表団を北朝鮮に送るので、日本共産党も参加してほしいという要請でした。その際、2度にわたる国会の提案に注目していると、おっしゃったそうです。先ほど紹介したパンフレットで、緒方国際局長は、この経緯を次のように説明しています。

「実は、2回目の不破質問から、村山申し入れのあいだには、政府にたいして2つの方面からの国際的働きかけがあったんだ、と聞きました。韓国の外交通商部とアメリカの国務省の方から、日本共産党の代表が国会でこういう問題提起をしているのに、日本政府はどうして何もしないのか、と詰められた、というのですね」

 こうして超党派の代表団が、99年12月、北朝鮮を訪問します。日本共産党は、衆議院から穀田国対委員長、参議院から緒方さんが参加します。

 出発前に代表団の会議があり、村山団長から、無条件、無前提ですべての問題を話し合うという提案がありました。いうまでもなく、国会でのわが党の提案と合致するものであり、日本共産党は賛成しましたし、それが代表団としても確認されることになります。
 現地における北朝鮮との会談では、穀田さんが党の方針を説明しました。そうすると、北朝鮮の側は、「よい発言をしてもらいました」と言って、これまでは交渉の前に前提条件がありうまくいかなかった、関係改善があれば問題があってもそこで解決できると発言したそうです。こうして、前提条件なしで国交正常化交渉を再開することが合意され、翌年4月、7年半ぶりに政府間交渉が再開されることになります。

 なお、会談が始まる前、金日成前主席の遺体をおいた廟を訪問する行事があり、日本の他の政党代表は、遺体の前で頭を下げたり、賛辞を記帳するという、いわば恒例の儀式をおこなったそうです。しかし、日本共産党の代表は、団の統一のため行事には参加するが、頭を下げたり、記帳したりしないという態度をとりました。そういう態度をとった後でも、日本共産党の発言の内容については、北朝鮮も反応してきたということです。

 余談ですが、私も、民青同盟で国際活動を担当していた頃、世界民主青年連盟の執行委員会に参加するため、北朝鮮に入国したこともあります。会議の合間に半日の休みがあり、ホストである北朝鮮が小旅行を準備しているというのですが、行く場所は金日成の像があるところだというのです。他の国々の代表は、いやいやながらもおつきあいだからと参加しましたが、私は、個人崇拝に加担したくなかったので同行しませんでした。この態度は、「日本の代表はそこまで徹底しているのか」と、多くの国の代表にも影響を与えることになったと思います。

<平壌宣言から六カ国協議へ>

 以上のような経過のうえに、02年9月、小泉首相が北朝鮮を訪問し、日朝首脳会談が開かれました。会談で合意された平壌宣言は、日朝間の諸問題を包括的に協議し、解決していこうというものでした。私たちが提起してきた方向で、問題を解決しようと言うことです。戦後半世紀以上にわたり、敵対的な関係にあった2つの国が、お互いのすべての問題を話し合い、国交正常化に向かうことは、両国民にとっても、北東アジアの平和にとっても不可欠のことであり、日本共産党は宣言を強く支持することになります。

 一方、会談では、拉致が北朝鮮の犯行であることが明確になり、国民に大きな衝撃を与えます。北朝鮮との交渉を開始することについて、「明らかに時期尚早」(民主党)、「本末転倒」(自由党)などの評価も見られました。しかし、日本共産党は、拉致問題の真相を究明し、全面的に解決するためにも、合意された宣言にもとづく交渉をおこなうべきだという立場をとりました。今回、家族帰国問題で前進があったことも、日朝平壌宣言という基盤、レールがあったことの結果です。この方向で、さらに事態を前にすすめていかなければなりません。

 しかも、平壌宣言は、核問題をも動かしました。宣言のなかでは、「核問題及びミサイル問題」について、「関係諸国間の対話を促進し、問題解決を図る」ことが合意され、6カ国協議(日米韓中ロ朝)が開始されたのです。 6カ国協議は、いろいろな角度から見て、大きな意味をもつものです。戦後史のなかではじめて、朝鮮半島問題ですべての当事国の対話機構ができたということです。朝鮮半島問題というのは、朝鮮戦争以来、この地域の平和と安全にとっていちばん大きな影響を与える問題であり続けたのですが、半世紀以上にわたってすべての当事国が一同に会するということがなかったわけで、その意義は計り知れません。当面の問題を解決するというだけでなく、北東アジアの将来にもつながるものです。

 しかも、どの国であれ協議から離脱する姿勢をとれば、対話を放棄した国として国際的な糾弾の対象となるのであり、壊れにくい仕組みだといえます。何回かにわたって協議が開かれ、意見の隔たりが大きいという報道もありますが、協議を拒否する国が出てこないで、少しずつでも前進していることが大事です。

 私たちの提起が、いまここまで到達していることに、大いに確信をもっていただきたいと思います。(続)

2018年10月3日

一、国際的無法との闘争の分野で(2004.7記)

 最初に指摘しなければならないのは、北朝鮮の国際的無法とのたたかいという点で、日本共産党が先駆的な役割を果たしてきたことに、大いに確信をもたなければならないということです。これは中央委員会が配付した小冊子「(党内資料)北朝鮮問題と日本共産党 歴史的な経過の理解のために」を読めば一目瞭然なのですが、重要なことなので繰り返し強調したいと思います。

 よく、在日朝鮮人の帰国運動に日本共産党がかかわったことを取り上げ、その責任を云々する議論があります。責任を追及するまではいかなくても、なぜ北朝鮮の実態がわからなかったのか、という疑問が寄せられることがあります。

 北朝鮮に現在のような体制がつくられてきた経緯はほとんど明らかになっておらず、こんごの研究を待たねばならない部分が多いのですが、帰国運動が開始された1959年の時点では、日本の政党やマスコミで北朝鮮の問題点を指摘するものは皆無でした。いまだから国民生活の困窮が話題になりますが、北朝鮮が工業生産高や農業生産実績などの数字を公表しなくなったのは80年代に入ってからであり、60年代は、発表された数字を見ても、韓国と比べても劣っているという状況ではありませんでした。

<無法のあらわれに最初から断固として対応>

 しかし、大事なことは、日本共産党は、北朝鮮の無法のきざしが見えた時点で、必要な批判をはじめたことです。そして、無法が拡大するにつれ、全面的な闘争をおこなってきたことです。

 最初の転機となったのは、1968年です。この年、日本共産党は、宮本顕治書記長(当時)を団長とする代表団を北朝鮮に送ったのですが、その最大の目的は、北朝鮮がとりはじめた路線の危険性、有害性についての日本共産党の見解を率直に伝え、真剣な検討を求めることにありました。

 具体的な内容については、小冊子にも掲載されている不破議長の「1968年の北朝鮮訪問の記録」に詳しいので、ぜひ熟読してください。きょうの話を理解していただくため簡単にまとめると、67年あたりから、北朝鮮が公表する文書のなかに、韓国への武力介入を示唆するような文言があらわれており、68年1月、それが韓国大統領府 (「青瓦台」)への武装襲撃という最悪の形であらわれたので、代表団を派遣し、その危険性について警告したわけです。北朝鮮側は、表面的には武力介入路線を否定しました。しかし、代表団が帰国して以降、北朝鮮による日本の運動への干渉が開始され、拡大していったのです。それは、日本共産党が北朝鮮の路線を支持することはないから、何でも言うことを聞いてくれる他の政党を取り込もうという意図をもったものでした。

 早くから北朝鮮の路線の危険性を見抜き、批判していたことは、日本共産党が自己宣伝のために誇張しているわけではありません。多少とも朝鮮半島問題に関心をもっている人々の間では、常識ともいえることになっています。

 日朝・日韓関係史の専門家で高崎宗司さん(津田塾大学教授)という方がおられま す。この方が、最近、『検証 日朝交渉』という本を書かれました(平凡社新書)。そこに次のような記述があります。

 「68年1月、北朝鮮が武装ゲリラをソウルに派遣し大統領官邸を襲撃しようとしたことを契機にして、それまで朝鮮労働党(労働党)と交流してきた日本共産党は、労働党と対立関係に入った。平和革命路線をとる共産党は北朝鮮の冒険主義的武装闘争路線を強く批判した。すると、労働党は共産党にかわる日本の北朝鮮支持者を日本社会党に見出した。70年8月には成田知巳委員長を長とする訪朝団を招請し友好関係を樹立した。しかし、社会党はそうした北朝鮮の思惑を十分理解しなかった。そして、次第に北朝鮮の主張を無原則的に受け売りするようになっていった」

 同じく最近、『北朝鮮報道 情報操作を見抜く』という本が出版されました(光文社新書)。これを書かれたのは明治学院大学教授の川上和久さんという方で、自民党の機関紙などにも登場されることのある方ですが、「離れる共産党、近づく社会党」という小見出しをつけ、次のように指摘しています。

 「1968年1月に北朝鮮は、工作員をソウルに潜入させて朴大統領の暗殺を図る 『青瓦台事件』を起こし、ソ連や中国と距離を置く自主路線を歩み始め、金日成独裁体制を強化し始めた」、「こうした北朝鮮を、独裁国家と認識し始めた日本共産党は、次第に北朝鮮とは距離を置くようになる。1973年には、共産党の機関紙『赤旗』の平壌特派員を引き揚げ、1983年のラングーン事件で、完全な断交状態に至る」、「1970年代前後から関係が冷め始めた日本共産党に代わり、まさに北朝鮮との蜜月関係を築いていったのが、日本社会党だった」

 なお公明党も、1972年、竹入委員長を団長とする最初の代表団を送り、金日成主席に礼賛の言葉を連発しました。ですから、「蜜月関係」が社会党との間だけでなかったことは、みなさんご承知のとおりです。

<80年代の公然としたテロ事件と日本共産党の態度>

 この構図は、北朝鮮の無法がより乱暴に、より公然とあらわれた後もつづいていきます。その一つに、いま紹介した川上さんの本で紹介されている83年のラングーン事件があります。日本共産党が北朝鮮と「完全な断交状態に至る」ことになった事件です。  

 ラングーン事件での日本共産党の態度は、小冊子に所収されている論文(「『朝鮮時報』の日本共産党非難に反論する」)を見ていただければわかります。私が指摘したいことは、なぜ日本共産党がこの論文を発表したのかということです。

 この論文は、「朝鮮時報」という、朝鮮総連傘下で日本語で発行されている新聞からの非難にたいする反論です。「朝鮮時報」は、ラングーン事件で北朝鮮を批判する議論が「某政党の機関紙にもつぎつぎと発表されている」として、反駁を試みたのです。いま私が引用した箇所でも明白なように、「某政党」への非難であり、日本共産党を名指したものではありませんでした。しかし私たちは、これを日本共産党への非難だと受け止めました。それは、論文の冒頭にも書かれているように、「ラングーンの爆弾テロ事件にかんして、今日までに堂々と公式見解を発表している政党は、日本では日本共産党だけ」だったからです。

 ラングーン事件といえば、韓国の閣僚を含め40人が死傷し、世界に衝撃を与えた事件です。しかも、ビルマ(現在のミャンマー)政府当局が北朝鮮工作員の犯行だと断 したわけであり、日本共産党が公式見解を発表したのは当然のことです。ところが、日本の他の政党は、このような重大な事件が起きてもなお、堂々と公式見解を発表することができなかったのです。 1987年末、大韓航空機爆破事件があり、翌年1月15日、韓国政府は、拘束した容疑者である金賢姫の供述にもとづき、北朝鮮による爆弾テロであると発表しました。岩波書店から『日本史年表』が出版されており、その昭和史の部分が電子データ化され、『データベース昭和史』としてまとめられています。大韓航空機事件でのっているのは、1月24日に日本共産党が「北朝鮮の犯行と表明」したことと、26日に政府も北朝鮮のテロだとして制裁措置を決めたこと、その二つだけです。歴史の年表に記録されるぐらい、日本共産党の態度は速やかで、インパクトのあるものだったということです。

 金賢姫の供述のなかに、日本から拉致された女性に教育されたという部分があり、 にわかに拉致疑惑が大きな問題となりました。日本共産党の橋本参議院議員が、その2ヶ月後、この問題を国会で追及したことは、みなさんご存知のことだと思います。

<各地、各段階で奮闘した日本共産党員>

 みなさんに確信をもっていただきたいのは、このような北朝鮮の国際的無法との闘争には、みなさん自身が参加し、推進してきたということです。

 北朝鮮との関係がわずかながらも維持されていた80年代はじめまで、全国の少なくない場所で、主題はさまざまですが、朝鮮半島にかかわる問題の集会等がおこなわれていました。だから、そこに党の都道府県委員会、地区委員会の代表が参加したことがあると思います。民主団体から参加した場合もあるでしょう。私自身は、全学連、民青同盟で活動していましたから、青年学生分野の集会にはよく招かれました。

そういう場合、参加者の発言のなかで、北朝鮮の外交政策を支持するよう求められることがありました。たとえば、北朝鮮は、朝鮮半島の統一をめぐる方式として高麗民主共和国連邦という提案をしていましたから、それを支持してほしいというものでした。しかし、私たちは、どのレベルの集会であれ、北朝鮮の外交政策を支持するという発言はしませんでした。

 また、金日成主席が72年に60歳(当時は首相)、82年に70歳になるということで、誕生日の贈り物をしてほしいという要請も各地でありました。個人崇拝のあらわれです。青年学生運動をやっていた私のところにもやってきて、どうやって断ろうかと頭をひねったものですが、「日本共産党の党首にも贈り物はしたことがない。そんな体質は私たちにはない」などといって、帰ってもらいました。みなさんも同じような体験をされたことでしょう。

 こうして、北朝鮮に同調する政党、勢力が少なくなかったときに、日本共産党とその党員は、北朝鮮の干渉とたたかってきたのです。このたたかいの結果、80年代に多くの野蛮なテロ事件を引き起こした北朝鮮が、21世紀になってようやく日本人拉致問題については事実を認め、謝罪し、解決に向かおうとするところまで到達しているのです。北朝鮮が国際社会に復帰するうえでは、過去のいろいろな無法の清算が必要ですが、その最初の突破口になろうとしているのです。このことにぜひ確信をもっていただきたいと思います。(続)

2018年10月1日

 本日と明日は大事かつ忙しい私用でおやすみ。明後日(水曜日)は福岡に行って、翌日から土曜日まで東京という日程で、その間に、元自衛隊の複数の幹部が「加憲」問題を論じる本とか、忖度しない5人の元高級官僚が日本の国家戦略にもの申す本とか、大事な本の編集作業を移動しながらやらなければならない。ちょっとブログを書く余裕がない。

 そこで、安直で申し訳ないが、もう14年前(2004年7月号)に共産党の月刊誌に寄稿した論文「北朝鮮問題を攻勢的にとらえるために」を5回連載で載せる。今週はそれでつぶせる。

 ご存じのように、いま『北朝鮮というジレンマ』という本を書いているのだが、その北朝鮮をどう論じるかという点で、私の原点となったような論文である。原点を一言で言えば、個人崇拝の絶対主義的な国内体制と、対外的な覇権主義が結びついた国として、この北朝鮮を捉えるということである。

 90年代の初頭、「赤旗」で、ソ連、中国、北朝鮮の覇権主義と闘ってきた当事者の記録を連載された。そのうち、不破哲三さんの書いたものは、『たたかいの記録 三つの覇権主義』というタイトルで92年に出版された。

 その中で不破さんは、68年に宮本書記長(当時)を団長として派遣された日本共産党の代表団は、金日成と会い、韓国に対して武力攻撃を仕掛けるのを諫めるのが基本的な目的だったことを明らかにしている。国内体制について、「絶対主義的な王政の統治下を思わせるような体制」と位置づけている。代表団の宿舎に盗聴器を仕掛けられたり、異常な個人崇拝が開始された体験などもリアルに書かれていた。

 68年と言えば、59年に開始された在日の方の帰国運動がまだ続いていて、それに対する批判的な見地は公表されていなかった。しかし、その時点で、北朝鮮の国内体制と覇権主義に日本共産党がそういう角度からアプローチしていたことが分かって、びっくりした記憶がある。

 しかしその後、中国共産党との関係が正常化されたことをきっかけに、共産党は「覇権主義との闘い」を強調するのではなく、他国の政権党とも外交対話ができることを「売り」として重視するようになる。その中で、中国や北朝鮮が抱える国内、国外の重大問題は変わらないのに、それを不問に付して仲良くしているように見えるという批判も寄せられていた。それに答えるというのが、私の論文の目的であった。共産党本部で給料をもらって仕事をしているわけなので、書けないこともあったのは当然だし、現在の局面下でいろいろ不十分な点があるのも当然だが、「こういう見地で北朝鮮に臨めば、世論の批判を恐れる必要はない」という私の見地が出ているものではある。

 これを書いたあと、不破さんから呼ばれて、「いま北朝鮮に対して覇権主義という性格付けをしていないので、こんご注意するように」と言われた。三箇所ほど、そういう言葉を使っていたのだ。

 一方、昨年1月、92年に出された不破さんの本が、『新版』として出版される。本のタイトルには、92年と同じく「三つの覇権主義」という言葉が使われている。北朝鮮も再び「覇権主義」という位置づけになったのであろう。中国についても、「覇権主義の問題は、中国における新たな台頭にも見られるように、現在なお、国際政治の重要な問題をなしています」とされている。さらにまた、不破さんが書いた「新版発刊にあたって」で、北朝鮮について次のような記述がある。

 「北朝鮮の個人崇拝体制は、金日成崇拝から金正日崇拝へ、さらに金正恩崇拝へと世襲的に継続され、今日では、そのもとでの専制体制が「核兵器大国」への異常な願望と結びついて、東アジアにおける危険の焦点の一つとなっています」

 まあ、私がいま書いている『北朝鮮というジレンマ』というのは、簡単に言えば、米朝合意という現局面においても、この不破さんの本と同じ見地を貫こうというものだ。本日から紹介する過去の論文も同じである。「新版」の刊行から1年半以上がたって、現在でも共産党がこういう見地なのかどうかは、私には分からないのだけれど。

 ある国が数年毎に覇権主義から平和志向国家へ、さらにまた覇権主義へ、さらに再び平和志向国家へという転換をくり返すことはあり得ない。政権交代もしないままなのに。対外的な覇権主義と国内的な絶対主義が変わらないままの北朝鮮を相手にして、どうやったら非核化できるのか。それこそ、考えどころなのだと思う。

 では、以下から論文。本日は「まえがき」部分だけで短いけれど、明日以降は、毎回4000字程度になる。

北朝鮮問題を攻勢的にとらえるために

 参議院選挙を前にして、北朝鮮問題で話をしてほしいという要望があり、きょうの学習会となりました。この問題では、先日、小泉首相が北朝鮮を訪問し、拉致被害者家族の5人が帰国するという前進がありました。核問題などを主要議題とした6カ国協議も継続的に開催されており、いろいろな分野で成果が期待されています。

 ところが一方で、この問題では、「話しにくい」「難しい」「できれば触れたくない」という方も少なくありません。私は、北朝鮮問題というのは、攻勢的にとらえなければならないし、それができるだけの実績、立場、政策を日本共産党がもっている問題だと思っています。2回目の日朝首脳会談とそれに至る経緯を見ても、その思いを強くします。こういう見地で、いくつかの角度からお話したいと思います。(続)