2013年8月23日

 『終わらざる夏』の最後は、占守島に残された女子挺身隊員400名をどう助けるかということになってくる。ソ連軍が来るなら、何とか北海道まで逃がさなければならない、辱めを受けることになるのだからということだ。

 そして、日本軍が戦う理由のひとつも、彼女らが北海道まで到着するまでの間の時間稼ぎである。だから、着いたという知らせを聞いて、みんな歓声を上げるわけだ。美談として胸を打つ仕掛けになっている。

 同時に、それが美談にとどまっていないところに、この本の大事な特徴があると思う。当時の日本政治の大問題がセットで問われるのだ。

 女子挺身隊が占守島に来ているのは政府の命令によってである。彼女らを逃がすに当たって、それと同様の方法でやっては同じ過ちをくり返すということで、彼女たちに考えさせ、決めさせるという手法がとられるわけだ。

 その伏線として、疎開先から逃げ出す小学生も描かれる。自分の頭で考え、親に会うという決断をして、逃げ出す。そういう生徒を生みだした教師と教育のあり方の大事さというものを、全体を通じて考えさせる仕掛けになっている。

 これは、本書の随所で見られるように、戦争それ自体への批判と一体のものである。戦争も、国民の意見を聞かずに政府が勝手に開始し、国民に命令して遂行してきた。戦争を起こしたのは、そういう日本の政治のありようだという、著者の強烈な批判が伝わってくるのである。

 そういう点で、本書は、戦争の一部を描いているようでいて、実際は、あの戦争の本質、性格を非常に性格に言い当てるものとなっているわけだ。個人の心の動きとヒダをたんねんに描き、非常に個人的なものを提示しつつ、そのことを通じて普遍的なものへと接近しているような気がする。

 私がこの本を読んだのは、特別な理由がある。近くつくりたい「憲法九条下の自衛隊活用を考える会」には、象徴的な人が必要だと思ているからだ。

 そういう会だから、違法な侵略に際しては反撃するということが明確な人じゃないと困る。この本のなかでは、軍隊を憎む人が登場しているが、それに対して、軍隊が悪いのではなく戦争を起こす政治が悪いのだという言い方で説得する場面が出てきたりする。それもこの会の性格にふさわしい。

 同時に、この本の大半は、戦争の性格という問題をこえて、戦争そのものの悲惨さを訴えるものだから、多数の人びとの気持ちと合致するかもしれない。浅田さんは陸上自衛隊出身だし、やはりこの人しかいないかも。お願いしてみようかなあ。

2013年8月22日

 ある戦争を小説で取り上げる際、その戦争の性格をどう描くかというのは、そう簡単なことではない。いや、書くだけなら簡単かもしれないが、それが芸術作品として人の心を揺さぶるまでに仕上げるのは難しいと思う。

 この作品も、日本の戦争を侵略だという言葉で表現しているわけでもないし、そのような自覚をもった人びとが登場しているわけでもない。実際、共産党が弾圧され、壊滅状態になってから10年以上もたっている終戦直前のこの時期に、しかも戦争の現場を描いているのに、そういう人物を登場させたりしたら、それこそリアリティのない小説になってしまうだろう。

 それに、侵略の側に立っているか、その侵略を受けて防衛の立場に立っているかで、兵士や家族の心情を完璧に書き分けられるのか、そういう手法が正しいのかも、難しい。防衛の立場なら家族は喜んで夫を送り出せるが、侵略の立場なら反対するという簡単な構図は成立しないだろう。残された家族が生活その他で苦しむのも、共通の要素がある。

 だから、戦争の性格を書き分けなくても、一般的な戦争小説が反戦意識を高めるという場合がある。戦争下で暮らす人びとをリアルに描けばそうなるわけだ。『終わらざる夏』もそういう要素がある。というか、浅田次郎は、戦火の下にあるいろいろな人びとを登場させ、その心情を描きだすことには特別の才能があると思う。

 だけど、この小説のすごいところは、別の手法でこの問題に挑戦していることだ。侵略と非侵略を描き分けていることだ。

 ひとつはソ連の兵士の描写である。スターリンの悪行を心底から憎んでいるコサック出身の兵士が、対ドイツの戦争ではそれでも崇高な気持ちで戦えたが、戦争が終了し、祖国に帰れると思ったのに、日本の領土である千島攻撃に動員される。こんな道理のない戦争には参加したくないという強い思いが描かれることによって、戦争にも性格の違いがあるのだということが伝わってくる。

 それは日本側からみても同じである。中国戦線で多大な功績をおさめ、天皇陛下から勲章をもらった一兵士が、自分の勲章がどんなに意味のないものであるかを語る。その一方で、占守島攻防戦にだけは、自分の全生涯をかけて戦うべき戦争だという位置づけを与え、死んでいくわけである。

 圧倒的な部分は戦争それ自体の生みだす悲惨を描き、物語の中核部分でだけ、そうやって戦争の性格を区別して描きだしている。そこに、リアリティというものと歴史観というものが融合しているように感じる。(続)

2013年8月21日

 今年は目立って多かったですよね。映画だけでも、「少年H」とか「風立ちぬ」とか。話題になっていたので、私もしばらくぶりに観に行きました。戦後68年もたつというのに盛況だというのは、国民のなかの平和への意識が少しずつ自覚的になっていることの反映なのだと思います。安倍さんも大変ですね。

 さて、作品の評価がいろいろ話題になっているけれど、私にとっては、観た方の反戦意識、平和への意識が少しでも高まるなら、それはいい作品です。上記の映画2作品も、そういうものであると思います。

 ただ、小説も含め、この夏のベストは何かというと、映画ではありませんでした。浅田次郎の『終わらざる夏』が良かった。理由はいろいろあります。

 まずテーマ。占守(しゅむしゅ)島の攻防をめぐる最後の戦いをクライマックスに、それに向かう過程を描いたものです。

 占守って、ワープロのかな漢字変換では出てきませんね。そういう場所になっているんだなあ。千島列島の最北端、カムチャッカ半島の目と鼻の先です。第二次大戦までは日本人が暮らし、営業していた場所です。

 これをテーマにすること自体が難しい。日本が戦った太平洋戦争の中では「異質」なものだからです。過去の国会での議論を思い出します。

 昔、国会で、日本の戦争は侵略戦争だったかどうかが、ずいぶん議論されました。細川さんが総理大臣になるまでは、侵略戦争だと答弁する首相はいなかったわけです。羽田さんが「侵略行為はあった」と認めたりしましたけど。

 そのなかでも記憶に残るのは橋本龍太郎さん。日本の戦争といっても、いろいろな種類があるではないか、対中国戦争は侵略だと認めるよ、だが対米戦争はどうなのか、とりわけソ連との戦争はどうだと反論してきました。日ソ中立条約をやぶり、ソ連の側から戦争をしかけてきたのだから、侵略したのはソ連の方だと答弁したわけです。

 あの戦争のなかから、対ソ戦争だけをとりだせば、それはまぎれもない事実です。だから、そういう戦争を主題にすれば、当然のこととして、ソ連の「非道」が強調されます。日本の侵略は主題にはならない。

 それが分かっていて、これを主題にしたことに、浅田次郎の決意のようなものを感じました。主題がそうであっても立派な反戦小説にするのだぞというような。

 大戦終盤のソ連の参戦は、どういう意味でも非道なものでした。終戦直前の満州への侵攻もそうですが、千島への攻撃は、日本がポツダム宣言を受諾し、戦争が終わってから1週間ほどあとになって開始されましたので、どうやっても言い訳ができない。

 たとえ日本がおこなった戦争全体の性格が侵略であっても、個々の部分について相手側に違法性があれば、当然のこととしてそれを糾弾しなければなりません。だから原爆投下とか東京大空襲とかを、左翼陣営もずっと批判しているわけです。

 個々の問題であっても違法は違法だと位置づけ、批判することは、戦争全体の違法性をあいまいにすることはありません。かえって、違法性批判の道理をつよめると思います。

 ところが、千島占領の非道というものは、領土問題とかかわって理論的には明らかにされましたが、小説のような形で出ることはなかった。それに挑戦したということが、まず大事だと思います。(続)
 

2013年8月20日

 そう、現在、こういうのを嫌う右翼って、元気なんですよね。元気なだけじゃなくて、行動しているんです。うちの会社にもときどき電話がかかってきます。

 最近電話があったのは、領土問題。学校図書館向けに「領土を考える」というシリーズを出していますが、その第二巻にあたる「日本の領土問題を考える」についてでした。

 そのうちの尖閣問題について、3回ほど電話があったんです。中国の主張を紹介しているのがけしからんという電話でした。いや、びっくりした。

 だって、この本って、尖閣は日本の領土だという明確な立場を打ちだしています。編者が塚本孝先生で、著者が私ですから、他の立場になりようがない。

 だけど、領土問題を子どもに教えるうえでは、相手の主張にも耳を傾け、考えてもらうことが大事なんです。だから、中国側が主張している内容とか、その主張が載っている文献とかも紹介しています。

 たとえば、中国の「順風相送」という本のタイトルが紹介されることは他のメディアでもありますが、その表紙とか該当箇所まで画像で紹介した本って、おそらくこれが最初ではないでしょうか。それだけでも購入する価値があると思いますよ、学校図書館関係者のみなさん。

 そうして紹介したうえで、なぜこれらの文献が中国に領有権があるという証拠にならないかを解説しているわけです。それって、普通のやり方だと思います。

 ところが、電話をかけてきた方は、中国の主張を紹介していることが気にくわない。だから、FAXなんかで、尖閣が中国の領土ではないという学者の発言とかを送ってくるんですが、かみあわないですよね。そんな発言、百も承知だし、別に立場が違うわけでもないし。

 それで、この本を廃棄処分にしないと、議会で問題にするって言うんですよ。この間、それで成功体験があるんでしょうね。

 だけど、何を問題にするんでしょうね。問題にしようがないでしょ、尖閣は日本のものだということを、それら学者の立場よりずっと説得的に解説しているのだから。成功体験が続いて、「中国」という言葉さえ、活字から抹殺したいんでしょうかね。

 だから私は、どうぞ議会で問題にしてくださいとしか、言いようがありませんでした。いや、裁判にしてくれてもいいですよと、挑発的にお応えしちゃいました。せっかく読んでくれた読者に失礼だったかな。

2013年8月19日

 出版されるまで、ときどき連載していきますね。ティザー広告のようなものかなあ。いや、ティザーにしては、中身を出し過ぎているかもね。

 出し過ぎということでいうと、その本に書いてないこともお知らせしておきます。『憲法九条の軍事戦略』ともかかわります。

 私の本を読んで、賛成してくれる人も反対の人もいるわけですが、共通して感じるであろう違和感があると思います。この両方の本で、憲法九条下で自衛隊を活用することを提案しているわけですが、それをどうやって実現するのかということです。だって、改憲派は、九条を変えて自衛隊活用の幅を広げようとしているわけですし、護憲派は、自衛隊活用に踏み込まないのが主流ですし、「民間人のお前がいくら吠えても現実味がないだろう」というのが、おおかたの読者の感想かもしれません。

 その通りなんです。だからそういう軍事戦略を採用する政党が生まれて、そういう政権をつくらないとダメなんですよ。

 ということで、暑い夏が過ぎたら、そこを突破する仕事をはじめることにします。一年がかりだと思いますけど。

 まずは、「憲法9条下の自衛隊活用を考える会」みたいなものをつくります。私のように非専門家ではなく、本物のひとたちによってですよね。自衛隊を動かしてきた人とか、そのなかで動いてきた人とか、それを何十年も観察してきた人とか。もちろん、護憲派ばかりでです。

 そして、その会で、とりあえず2回ほどのシンポジウムを開く。侵略されたときにどう活用するのか、国際貢献ではどうかの2回。私の本など足元にも及ばない水準のものができあがるでしょう。そして、それを活字にまとめて、誰もが読めるようにします。

 その後、活字になったものを全政党に配って、全政党を対象にして、またまたシンポジウムです。「憲法9条のもとでもこういう防衛戦略があるではないか」、「こういう国際貢献がもっとも日本にふさわしいのではないか」ということを提起し、それを政党間で議論してもらうわけです。

 まあ、その結果がどうなるかは、いまの段階では読めません。与党が納得すればそれに越したことはありませんが、与党間に亀裂が生まれることにでもなれば、それはそれで大事でしょう。

 それでも与党が改憲に突き進む場合であっても、野党に協力のための議論の土俵を提供することになれれば、それもうれしい。政策が一致しないと、政権共闘もできませんしね。すでに某政党からは、私の本での提起が参考になるとの声があるのを聞いています。

 ただ、それらのことが全部ダメでも、世論に少しでも変化がもたらされるということが、いちばんの望みです。現在の世論の構図は、単純化すると、「自衛隊を強化する改憲派VS自衛隊を否定する護憲派」というものですが、3年後のダブル選挙と国民投票までに、「海外で戦争することをめざす改憲派VS専守防衛と人を殺さない国際貢献の護憲派+自衛隊を否定する護憲派」という構図をつくりたい。

 さあ、私にとって、勝負の3年間の始まりです。もちろん、それらの経過は、すべて本にします。だって、出版社の編集長ですものね。

 追伸:協力してくれる方がいたら、ご連絡くださいね。(続)