2014年9月9日

 「強制」があったのかなかったのか。それが議論される際、「誰による強制」だったのかについて、つねに明確にされるわけではない。おそらく、そういう主語がついていなくても、「誰」というのは「日本軍」とか「日本政府」である、ということが自明の前提になっているのだろう。

 「誰」がやったのかは、責任の所在に直接結びつくからだろうが、非常に大事な問題であるとされてきた。そして、河野談話が強制を認めたことで、左側の人は「強制を認めたのだから国家責任で謝罪と補償を」と言ってきたし、右側の人は「政府や軍は強制なんかしていないのだから、談話を取り消せ」と求めてきた。

 たしかに河野談話は、慰安婦は「本人たちの意思に反して集められた」とか、その募集などは「総じて本人たちの意思に反して行われた」などとのべている。しかし、そうやって慰安婦を集めた「主体」については、慎重な言い回しである。慰安所が軍の要請でつくられたこと、その管理や慰安婦の移送は軍がやったことを認めている。だが、慰安婦の募集については、「軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たった」として、民間業者がやったことという考えを貫いている。「官憲等が直接これに加担したこともあった」という文面はあるが、その文脈でも明白なように、基本は業者であり、官憲の関与は個別的という位置づけである。

 このような構造になったのは、政府の検証結果からも明らかなように、日韓による交渉の結果である。韓国側としては、本人が望んで慰安婦になったととられる文書になることは絶対に避けたかった。日本側は、政府や軍が組織的に強制したととられる文書にはしたくなかったわけである。

 だけど、私は、この構図がいいのだと思う。河野談話のすぐれたところは、「本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり」とか、「総じて本人たちの意思に反して行われた」と明確にしていることである。政府や軍は強制的に連れてこいという方針は持っていなかったにしても、連れてこられた本人は「自分の意思に反したものだ」という認識をもったということが大事だと思うのである。

 だって、慰安婦の多くは、非常に貧しい家庭の出身である。日本が戦争に突入して、ますます貧しくなった(日本本土もだけど)。親はたくさんの借金を抱えていて、それを返済しなければならない。そういう状況のなかで、日本軍の慰安婦になる道と、それよりは収入が少ないが別に収入を得る道の二つがあったとして、最終的に本人がOKして慰安婦を選んだとしても、それを自由意思による選択だといえるだろうか。慰安婦になると儲かるよといったのが民間の業者であれ、あるいは官憲であれ、もしくはもっと過酷なことに自分の親であったにしても、できれば選択したくないいくつかの選択肢のうちから、イヤイヤ選択せざるを得なかったのだ。本人の心に「自分の意思に反したものだ」という気持ちが生まれたのは当然のことだろう。

 この問題をめぐっては、右派から、「実際には娼婦だった」とか「金儲けの手段として選んだ」とか、いろいろ言われる。そうでないことを証明しようとして、いろいろな資料集めがされる。だけど、そんなことをしなくても、「本人たちの意に反した」ことで十分なのではないだろうか。そういう状況に女性を追いやるような慰安婦制度を軍が必要としたというだけで、批判するには十分ではなかろうか。

 しかも、もっと大事なのは、別に日本政府や日本軍が強制しなくても慰安婦を集められたことである。強制連行せよという方針を出さなくても、それが可能だったことにこそ、この問題の本質があると私は思う。当時の朝鮮半島がそういう位置に置かれていたことである。(続)