2014年9月17日

 昨日は福島。福島を中心にして3800名以上が原告となり、原発事故を起こした国と東電の責任を追及する裁判がやられている。その法廷を傍聴してきた。

 この裁判の意義、中身を明確にしたのが『あなたの福島原発訴訟』という本。「みんなして「生業を返せ、地域を返せ!」というスローガンがサブタイトルになっている。

 裁判の本をつくっているのだから、その裁判の様子くらいこの目で見ておきたかったということもある。また、この裁判の原告団・弁護団が10月2日、福島市の音楽堂で『福島の過去・現在・未来を語る』というシンポジウムを開くのだが、私がそのパネラーになってしまっていて、裁判のことを肌で感じておかねばならなくなったという事情もある。

 傍聴して、とても感動した。裁判というと、原告と被告が決まり切ったことを言い合い、裁判官が決まり切った判決を下すというイメージをもつ人もいあるだろうけれど、そういうものではない。本当に心を打つ弁論があれば、裁判官の心を動かすこともできるし、舌打ちしたくなるような被告の発言に対する傍聴席のため息も、それはそれで裁判官とも共有できるのだということが分かる。

 ところで、新幹線に長い時間乗っていたので、本を1冊読了した。フランクルの『夜と霧』の新訳(池田香代子訳)である。というか、フランクルが70年代に改訂版を出して、その訳ということになる。

 その改訂版では、旧版に存在しない重要な箇所がある。米軍が進駐してきてユダヤ人を解放する場面で、ドイツ人のある看守を助けてほしいとユダヤ人が米軍に要請し、それを飲ませるというエピソードだ。我々の感覚では、ドイツの看守はみんなひどい人というものだろうが、現実はちがっている。同じドイツ人でも、いつも横暴に暴力をふるう人もいれば、一度もふるわない人もいるということだった。

 福島の法廷では、被告側国と東電から20人ほどが参加していた。みんな一様に黒い服を着て、黒いキャリーを引いてきて、どんな証言があっても顔色を変えないし、全員がひどい人に見える。だけど、そういう人の心のなかをのぞいてみると、じつは国や東電のやり方に納得していない人もいるかもしれない。

 だからこそ、法廷をなおざりにすることなく、国や東電は何を言っても変わらないという立場ではなく、変わるのだと信じて真剣に心から訴えることも大事なのだと思う。そのことが何かももたらすのだと思う。本当に勉強になった一日だった。