2016年6月8日

 昨日アップしたレジメで、「「エジプト型」独立がGHQの目標」と書いたところ、それって何だというご質問を受けたので、お答えしておきます。ほとんどの方は京都での講演を聞きに来ることはできないわけで。

 2002年8月5日、朝日新聞が、占領期において昭和天皇とマッカーサー会見の通訳を務めた外交官・故松井明氏(1908-1994)が書き残したメモを公表しました。敗戦から約1か月後から独立直前まで、両者の会見は11回にも及びましたが、何が語られたのかはそれまで断片的にしか知られていませんでした。朝日新聞によれば、松井氏は第8回から第11回という、占領が終わりに近づきつつある時期の通訳を担当したのですが、その記録を一問一答方式で残していたのです。

 この記録には、多くの興味深い事実が書かれていますが、私が注目したのは、占領末期ということで、独立後の日本のありようについてのマッカーサーの考えが分かることが大事です。記録によれば、マッカーサーは、日本の独立後に駐留する在日米軍の性格について、「エジプトにおける英軍……と同様の性格のものとなりましょう」と述べたそうなのです。
 
 「エジプトにおける英軍」といっても、にわかには分からないでしょう。エジプトって、1936年、それまでのイギリスの直接統治から脱して「独立」したんですが、その際、「イギリス・エジプト同盟条約」を結び、スエズ運河防衛のためのイギリス軍駐留を受け入れます。これって、実際、いまの日本につながるような(少なくとも52年の旧安保条約下の日本そのものの)駐留でした。

 まず、条約では駐留地域はスエズ運河地域に限定され、軍隊の規模も陸軍1万、空軍400と限定されていましたが、実際には首都のカイロやアレキサンドリアにも駐留していました。その規模、最大で8万3000。まあ、全土基地方式というわけです。

 それに目的。スエズ運河防衛ということになっていたのに、実際は、国王が反英的な内閣をつくろうとすると、王宮を軍隊で包囲して親英内閣をつくらせました。ちょっと違うところもありますが、52年の旧安保条約も内乱で米軍が出動するような規定があって、ずっと内政干渉的だということで問題になっていましたから、似ているわけです。

 さらに裁判権。条約に付属の「エジプト内のイギリス軍が享有する免除及び特権に関するイギリス・エジプト協定」によると、公務中であれ公務外であれ、裁判権はイギリスが持っていました。旧安保条約に付属した行政協定(現在の地位協定)でも裁判権はすべてアメリカが持っていました。

 そういう状態だったのに、条約の名前だけ「同盟」条約なんですね。建前が同盟国だが実態は従属国。日本と似ていませんか。

 エジプトのナショナルデー(独立記念日)は7月23日です。これは、ナセルがクーデターで政権を倒した52年7月23日のことです。エジプトにとって、36年からの独立は、本当の独立ではなかったということです。

 そして、そういう「独立」を、マッカーサーは日本に与えようとしたというわけです。示唆されることが多いですよね。